2007-2008
みなさま今年もありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
最近のcoyotenoteについて「映画や本のレビューばっかりで、自分自身のアレコレが書かれていない」と先日言われ、確かにそれはその通りであり、十分に自覚している事態ではあるのだが、そのように「自分が経験した他者の創造物」を通して間接的に自分を語るようなことしか、どんどん出来なくなってしまった(=つまりそれはいつの間にか思考の範囲も狭まってしまった)ことを意味しているではないかと思ったりして、そういうところは少しずつ変えていくようにしたいな、と柄にもなく反省めいたことを考えている。
書きたいこと、書いてもいいこと、書いてしまうこと、それらの外壁自体が、いつのまにか書きたくないもの、書いてはいけないもの、書かないようにしているものを規定してしまう。何かを否定するつもりなど毛頭なくても、何かを続けることは何かを重要視しないことに結びつく。
それを恐れ、全てにバランスよく立ち回ろうとすれば、それは余りに希薄で迫力に欠け、その存在すら確かめることが出来なくなってしまうだろう。逆に選択と集中を繰り返し、強烈な濃度でもって生きることも、どこかで無理をしてしまうことになって壊れてしまうかもしれない。そのあたりの加減は未だにわからないのだけれど、このところはすべてにおいて安全な方に舵をきっているのかもしれないなとも思う。
「カラマーゾフの兄弟」の中で、ニヒリストのイワンが、こんな言葉を漏らす場面があって、たまらなく好きな場面である。きっと来年も、この僕の頭の中で、イワンとアリョーシャが会話を続けるだろう。だけど、いつもイワンはアリョーシャに癒してもらいたいと思っている。そしてアリョーシャはイワンに対する好奇心を持ち続ける。そう、それだけは確かなことなのだ。
「ねばねばする春の若葉、青空が、おれは大好きなんだ。そうなんだよ!知恵や、論理なんて関係ないんだ。はらわたと魂で愛するんだ、この生まれる力、この若い力を愛するんだよ・・・たしかに愚にもつかない話だけど、おまえもすこしはわかるかい、アリョーシャ、どうだ?」イワンはふいに笑い出した。
カラマーゾフの兄弟 第2部 第5編「プロとコントラ」より
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