実録・連合赤軍 あさま山荘への道程

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日曜日。テアトル新宿で実録・連合赤軍 あさま山荘への道程。やっと見に行くことが出来た。

190分。釘付けになるとはこのことか。機会があればもう1回見に行こうかと思うくらい引き込まれてしまった。もう1時間くらいあっても良かったとさえ思う。

「映画に文法はない。志さえあれば、映画は撮れる」

若松監督の言葉だが、なかなか言える言葉ではない。文法はあるし、志だけで撮られた映画は多くの場合失敗する。ただ、この映画を見た後には、その気迫に頷くしかないと思った。間違ったり、偏ったりすることを恐れていたら、何も語ることは出来ない。いや、語ることで初めてその「志」なるものが生まれるのではないか?

「光の雨」も同じく連合赤軍の映画だが、あの映画は「連合赤軍事件を映画化する若者たち」という劇中劇の構図をとっており、「事件」との距離感について極めて慎重な立場をとっていた。(映画としてはよく出来ていたし、何よりも裕木奈江演じる永田洋子は凄かった。)

だからこそ、若松映画の小細工の無さ、恐れの無さが際立って見える。誤解されることを恐れずに撮られた映画であるし、同時に決して人を裁くことのない映画である。人を裁くとき、同時に私は自分を裁かなければならない。この映画にはその覚悟があり、また同時に客観性の鎧を脱ぎ捨てた潔さがある。

銃撃の訓練をバーンバーンと口で言いながらやるシーンで、笑っちゃいけないんだけどちょっと笑いそうになる遠山美枝子のシーンがいい。水筒事件も、銭湯入っちゃうのも、ビスケット食っちゃうのも、嫉妬するのも、セックスしちゃうのも、何もかもが笑える出来事だ。道に迷い続けたあげく、よくわからないところで落ち着いちゃったりするのが人生だが、この若者たちには人生を、他人はもちろん滑稽極まりない自分を笑うことすら出来なかった。

多くの人が触れているが、山荘の中のシーンで、その外界が描かれることはただの一瞬もない。そこには架空的クライマックスとしての「銃による殲滅戦」の薄っぺらさ、切なさが織り込まれ、あたかもその当時の日本が見た集合的白日夢のような印象すら与える。

ラストに一言だけ(おそらくは事実ではない)加藤兄弟の末弟の台詞が響き渡るが、あの言葉を表面的に受け取ることは出来なかった。台詞だけで解釈すれば陳腐とも言える結論が、あの長く陰惨な物語の末尾に置かれることに、それこそ総括的な意味はない。ただ、人間は何かの言葉を絞り出さずには世界を語ることが出来ない存在なのだ。語り得ないものを語ろうとすること。それが悲痛な叫びになったり、このような映画になったりするのではないだろうか?

パンフなどという甘いものはない。1470円のこの厚い/熱い本を読むしかない。当然買いました。
若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程

あとはジム・オルークの音楽がとっても良かったのでサントラを買いたかったのだが、どうやらそんなものは出ていないようだ。

"picture of adolf again"のビデオ発見。
http://www.dailymotion.com/video/x4m4cd_jim-orourkepictures-of-adolf-again_music

予告編。

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このページは、biwacovicが2008年4月15日 22:41に書いたブログ記事です。

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