book: 2007年11月アーカイブ
水木しげるの「劇画ヒットラー」読了。こんな珍本があったなんて。水木キャラでヒットラーをはじめ歴史上の人物が描かれるだけでも衝撃なんだけど、それがいつのまにかブルーノ・ガンツが演じたヒトラーに劣らぬほどの存在感が出てくるから不思議である。人生の落伍者から独裁者へ、そしてその死までがなんともとぼけた、淡々とした感じで進む。
当時のドイツにインターネットが普及していたらヒットラーは生まれただろうか?もしかしたらもっと急速にナチは支持されたかもしれないとすら思う。そのくらいに人間個人の「意志」は時に脆いものであり、集合化で思わぬ方向へ進んだりする。人間は愚かであるとか、愚かでないとか、そういったことがどうでもよくなってしまう気さえする。水木キャラのヒットラーとその時代を読むと、自分の「意志」というものがなんなのか分からなくなってしまう。なんとなく、ぼんやりとそんなことを思った。
読んだのは夏ごろだっただろうか?とりあえず今年読んだ本でブログにメモしてなかったので貼付けておく。これはすげーという小説。「通俗」とはかくあるべし。そういえば昨日の夜、BSマンガ夜話で「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」をやっていたのだが。あの漫画に、どこかしら似ているような気もした。どちらも「モンスター」についての物語だからだろうか?
以下翌日になって追記。
ウェブ時代をゆく風に言うならば、「商品になる自分」としての極北の形としての「身体を売る」という行為が、意識的に積み重ねられて行くところがとってもスリリングである。そして「傍観者」「記述者」としての「わたし」が最後に大きくそのマーケット(=売り物としての身体の市場)に出て行くところがなんとも言えず陰惨というか壮快というか、ただ事ではない切迫感を持っているのである。生きるというのはなんとグロテスクな行為であることか。
こんな本も読んでいたりします。バリバリのベストセラー。僕のような金融リテラシーゼロの人間にはぴったりなのではないでしょうか。頭の悪い煽り文句のような書名とは裏腹に、内容はかなりまっとうな感じがしました。とりあえずおべんきょう、おべんきょう。
今読書中の「カラマーゾフの兄弟」と比べると、なんか頭がぐるぐるして面白い。
最近、駅のホームから見える"you are what you buy"と書かれているカードの看板が気になる。恐ろしいことに"you are what you want"ですらないのである。我々は神なき(いるかもしんないけど)世界の中で、お金という言語を与えられ、必死で何かを話そうとしているのかもしれない。
それタダの32歳の無職のおっさんじゃん!と更新係がつっこんでいるように、この「化け猫」なんだけど、田舎でやることもなくぶらぶらしている32歳のおっさんっぽさは異様なほどにリアル。いましろダウナーワールドのアイコンであるダウナー春山も登場してきて嬉しい。物の怪たちが遊びにくるんだけど、みんなゲームしたり漫画読んだりしてるだけの「宴」には涙が出るような既視感さえわいた。割と一歩間違えばあんな感じだったよ学生時代とか。
「ウェブ時代をゆく」読了。「ウェブ進化論」は良かったと思ったが、その後に2匹目のドジョウよろしく出版された、よく分からない学者や作家との対談集のようなものは、正直言ってまったく興味が持てないばかりか反感すら覚えていたが、著者の「ウェブ啓蒙/自己啓発集大成」とでもいうべき本書はやはり読んでおきたいと思って購入。
印象としては、著者の好む村上春樹ではなく、村上龍の小説/言説のような印象を受ける。徹底した現実主義と「人生をサバイバルし楽しむことが、抑圧者への復讐であり、自分の勝利である」というムード。楽観主義、性善説、サバイバルの重要性・・・どれも大人になった僕にはうなずけることばかりだし、この本を読んで勇気づけられることも大いにある。そして同時に不安や恐怖にかられ、自分自身がコモディティ化して社会に使い捨てられて行く未来も頭に鮮明に浮かぶ。このまま漫然とIT業界(笑)で、疲弊し陳腐化していく自分を思うとクラクラと絶望感に打ちひしがれたりする。
何年か前に、村上龍が「13歳のハローワーク」という本を出してベストセラーになったとき、猛烈な違和感と居心地の悪さを感じた。それは今にして思えばおそらく「好きなことを仕事にしよう」という至極真っ当な主張への異議だったのだろう。本書で言われる「好きを貫け」についても同様にぼんやりとした居心地の悪さを感じる。「好きなこと」とは何だろう?僕が「向いていること」ってなんだろう?自分の「選択」は本当に自分が下したことなのか?そもそも「自分」とは何によって作られているのか・・・・そして極めて「戦略的」で「論理的」に下された結果の、「売り物になる自分」という存在に、本当の意味で親しみが湧くのだろうか?という疑問。(それって昨今のお笑い芸人が突出し徹底した自らのキャラ演出で、一時の人気を得ているのと一緒の「戦略」のような気がするしね。。)
そういった面倒くさいことはとりあえず横に置いておこう、だってそんなことばっか考えていたらサバイバル出来ないしね・・というぶっちゃけ論を誰かがいってくれるべきだし、この本はそういう力強さに溢れている。蜘蛛の糸はカンダタだけに垂らされる訳ではない。インターネットは情報をコストゼロで共有/並列化し、誰にも同じ条件で戦うことを許し始めている。だからみんな、その強度を気にせず蜘蛛の糸を登ればいいじゃないか・・という訳である。蜘蛛の糸は事実上無限にコピー可能で、登ることの出来る人も独りじゃないからカンダタの存在もないのだ・・というのが本書のオプティミズム。論理的だし、実に「役にたつ」話だと思う。
ただし、人生はミスマッチ (内田樹の研究室)のような言葉も同時に接種しておくべきだろう。役に立たないことばっかりやってしまったり、選択を誤り続けたり、それを呪い続けたり、まあいいやと開き直ったりする。蜘蛛の糸どころか、そこが地獄であることすら気付かずにニコニコダラダラと過ごしてしまったりもするだろう。そして僕はそうゆう人生も、蜘蛛の糸を登る人生も、同様に愛おしく思う。多くの人生は論理や正しさよりも、不条理や間抜けさに溢れているのだ。
人生はミスマッチである。 私たちは学校の選択を間違え、就職先を間違え、配偶者の選択を間違う。 それでもけっこう幸福に生きることができる。
そう、「それでもけっこう」と思えずに、適性/適職を探し続け、未来への恐怖だけにドライブされた人生を送るのはゴメンだったりする。本の影響を受けやすく、すぐそうなっちゃうような人にはこの本をオススメしないし、逆にちゃんと優れた小説を読むようにこの本を読むことが出来る人は読んだ方がいいと思う。僕もいささか歳をとり過ぎた読者かもしれないが、若者がこの本を読んで思うオプティミズムに貫かれた未来の姿を即座に否定するような立場はとりたくない。とりあえずそのことだけは確かである。
フィリップ・K・ディック「最後から二番目の真実」読了。毎年1冊くらいのペースでサンリSF文庫の絶版本が創元から出ているのだが、これは新訳での出版。
「終わりなく続くまやかしの核戦争」がこの小説の舞台。地下塔に住む人々と、地上に住む特権階級。地下の人々の主な仕事は「要員」とい呼ばれるロボット召使いの製造で、地上の人々はその「要員」に囲まれて、まやかしの戦争ニュースを日々作るのが特権階級の仕事だというのだから、実に奇妙な経済で成り立っている世界だということになる。(農業とかは誰がやってるんだろう?)
護民官はシュミラクラだったり、世界中の人々を騙す偽の戦争記録映画とか、時間移動する男とか、テレビ型殺人マシーンとか、世界中に散らばる地下世界とか、ロボットとか・・・ディック的アイテムが総登場して楽しいし、映画にしてみたら面白そうな設定ばかりである。(すでにマトリックスにやられているかもしれないけど・・)
久しぶりのディックの小説は、やっぱりディックだなあとしか言えない。奇妙でかわいらしく、不安に満ちた世界だけど誰も絶望していない。



