cinema: 2008年1月アーカイブ
日曜日、「レンブラントの夜警」を見た後に歌舞伎町でもう1本。28週後。
2003年の「28日後」の続編。前作もよかったが、こちらも傑作である。レイジ・ウィルスが鎮圧されたかにみえる28週後のロンドンが舞台。そう、あの高速ゾンビ化ウィルスが再発してしまうのである。
「28日後」と「28週後」の2本は言うなればエイリアンとエイリアン2のような、どちらも恐怖とその拡散を描きながらも、その対処法や描かれ方が微妙に違う2本の素晴らしい映画である。恐怖だけでは映画にならない。希望だけではウソになる。そういう基本がきっちりわかってるから、この映画はまるで教科書のように素晴らしく残酷な展開を辿る。一切ダレることなく、容赦なく物語は突き進む。そしてラストシーン、わかっていてもやはり素晴らしい。
ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」を近所のTSUTAYAで借りてきて見た。
ゴージャスでスマートでエレガント。こうゆう古典もガンガン見ておきたいなと思った。ケーリー・グラントとエバ・マリー・セイントのラブシーンが濃厚でいやらしくて、脱いでないんだけど、こうゆうねっとりしたエロい感じが昔の映画っぽい。
本作とは関係のない話だが、DVDレンタルはやっぱりかったるいなーと思ったりした。最近様々なところで言われているが、ブルーレイだHD-DVDだのと争っていた次世代ディスクの規格は、ワーナーがブルーレイに決めたのでそろそろ決着かと思われるが、結局最終的にはハードディスクがあればいーじゃん、になりそうな気がするし、Apple TVではついに映画のレンタルもはじまったみたいなんだけど、どうせ日本ではまた諸々揉めてなかなかサービスはスタートしないんだろう。
そんな状況だけど、ウチもそろそろテレビのHDMI端子にApple TVもしくはMac miniでも繋ぎたいなあという気分である。Time Capsuleと組み合わせて。
日曜日。テアトルタイムズスクエアでレンブラントの夜警。きっといやらしいシーンが満載で眠くないだろうと思ったのだが、それでもやっぱり眠かった。なんというか、全体がひどく散漫で集中出来ず、絵が素晴らしいのはわかるけど、結局何が言いたかったんだろう?という感じ。
もう1週間前か。シネマヴェーラ渋谷で「狼と豚と人間」。これはある意味「仁義なき戦い」よりも衝撃的な作品だった。
三國連太郎、高倉健、北大路欣也が貧民窟に育った3兄弟。(余談だが、最近3兄弟モチーフのすべてがカラマーゾフの兄弟に思えてならない)若きの日の北大路欣也にびっくりしたが、更にびっくりしたのがその友達役の石橋蓮司。このいたいけな少年が後に立派なアブノーマル俳優に成長するとは。
「生き残りたきゃ他人を蹴落としてでも這い上がれ」という蜘蛛の糸的世界観と、あくまで「人間」であろうとする無垢な情熱が、現金強奪や拷問や悲鳴や銃声で猛烈に増幅される。その背景に、まるで書き割りのように置かれた貧民窟の住人たちの姿が印象的。うつろに立ちすくみ、貧しさから抜け出そうとする3兄弟の焦燥感もなく、ただ力なく石を投げつけるのみ。
そして多分、「レザボア・ドッグス」のご先祖様の一つですね。すごい。
先週の土曜日は「スティーヴィー」を含めて3本も映画を見たのだった。これは1本目。朝の11:00からシネマヴェーラ渋谷で「仁義なき戦い」。(特集:焦燥★70年代★深作欣二)
恥ずかしながら、ちゃんと見たのはおそらく初めて。深夜のテレビとかで見たことあるかも?という程度。なるほどこいつはすげーなと思いながら、のめり込みつつ見た。
子どものころ、とにかくヤクザ映画が嫌いで仕方がなくて、その総本山とも言える「仁義なき戦い」は敵視していたのだと思う。暴力礼賛、死の賛美、恐ろしく落ち着きのない画面、悲惨なストーリー・・・それら全てが、なぜか逆にギンギンに響いてくるのは、僕がもう子どもじゃないからだろう。当たり前の話だが。
あと、暴力と死の影が全編を覆っていることを別にすれば、実は劇中で「抗争」として騒ぎ立てられる争いは、どんな組織や集団でも起こるパワーゲーム、離合集散のゲームであり、小学生から大人にいたるまで割と普遍的にみんなが経験することなんじゃないかなと思った。ただその「抗争」が結果として多くの登場人物のいのちを奪ってしまうという点が、現実に起こるパワーゲームと違っていて、その極端さに僕らは恐怖し、同時に喜ぶのだろうと思った。会社でもサークルでも、派閥が出来れば、それはすなわち「仁義なき戦い」の始まりなのだ。
土曜日。シネセゾン渋谷で「進化する、映画×リアリティ。」特集。「スティーヴィー」を見る。
なんというか、上映後にじわじわと頭の中を占拠した、絶望とも祈りともとれる感情をなんと説明すればよいだろうか。上映前のトークショーで松江哲明監督が、結論がないドキュメンタリー/作り手が映画の中に映りこんできてしまうドキュメンタリーなのがいいんだ・・的なことを話していて、まさにその通りの傑作だと言うしかない。DVDにもなっていないのが残念である。(日本公開の為のブログ、スティーヴィー通信というページもある。またどこかで上映される機会があればいいなと思う)
これを見てしまうと、マイケル・ムーアもいいけどやっぱり本当の映画はこういう映画かなと思ってしまう。(マイケル・ムーアの映画は確かに「必要」だけどね)「スティーヴィー」という映画の中には告発すべき敵も、戦うべき相手も、ともに戦う同志もいない。あるのは、脆くて危うい、人間と人間の関係だけだ。時に冷たく/時に暖かく、遠くて/近い。その関係を映画に焼き付けることを、「僕は君を見せ物にしている」と語る監督の態度は、一貫して恐ろしいほどに冷徹で、かつ様々な覚悟に満ちている。
最後の方で、スティーヴィーの恋人のトーニャが「一人で生きていくのは嫌なの」というシーンがあって、激しく動揺してしまった。セリフでなく、かといって少し不自然な感じもしつつ、でもこの言葉には計測不能なほどの重みがあって、おそらくは撮影している監督もびっくりしたのではないか。スティーヴィーはクズだ。どうしようもない。救いようのないダメ人間だ。だけど、一緒に生きていたいと思う人がいる。
ユーロスペースでジャーマン+雨。
トラウマや悲劇という、「ドラマ」を作る為に必要な要素(創作のモチベーションとなるもの、と一般的には信じられているもの)が、破壊的なたて笛の音や、あらゆる共感を拒むかのような「うた」によって、ボコボコにされていく。そして何よりよし子という存在自体も、ボコボコにしてるんだかされてるんだかわからないままに生きていく。
そして、不思議な脇役たち。キム・ギドクの「サマリア」でもそう思ったのだが、主人公以外の登場人物のうち何人かは、本当は存在しないんじゃないか?と思ったりした。マキも、こどもたちも、ダンゴムシも、全てが彼女の想像上の人物なんじゃないかとすら思う。じゃあ対峙すべき「世界」なんてそもそもどこにあんの?という気さえしてしまった。自分が混乱の中にいれば、世界も混乱したままだんだ・・ということか。あと、よし子もマキも、子供らもダラーっとしてるシーンのサイケデリックというか、ひたすら停滞してる感じとか、ドッジボールとか、突如暴発するうたとか、色んなシーンが素晴らしかった。
ちなみに、なんか懐かしい感じのする風景だなと思っていたら、ロケ地は滋賀県でした。あの閉塞感が風景になってる感じは、なかなか出せる味じゃない。(と出身者は思う)
2008年最初に見た映画。線路と娼婦とサッカーボール。
■私は、良いドキュメンタリーと悪いドキュメンタリーの違いは、(1)二元論に覆われた我々の日常を疑うものであると同時に、(2)二元論から逃れることの不可能性にも敏感なものだと思います。現に、私もここで、「良い/悪い」という二元論的図式を使ってしまっています。
■『線路と娼婦とサッカーボール』は二つの条件を満たしています。どこがどう満たしているのかを指摘する作業は皆さんにお任せしましょう。一つだけ申し上げたいのは、そうした二元論的な分別を乗り越えるモチーフとして、サッカーの荒唐無稽が持ち出されることです。
映画『娼婦と線路とサッカーボール』パンフレットに寄せて - MIYADAI.com Blog
この映画におけるサッカー(正確にはフットサル)は、直接的な闘争の道具ではもちろんなくて、闘争の支援者としてのジャーナリスト/マスコミに取り上げてもらう為の間接的な方便として選びとられている。だから正直なところ、ゲーム自体は何点とられて勝とうが負けようがどうでもいいはずなのだが、結局のところ彼女たちの喜びはサッカーのゲームの中にしか宿らず、決して現実へと繋がらない。「戦っている」という現実はマスコミを通してしか現実化せず、いつしか運動は飽きっぽいテレビや新聞の興味の減退とともに衰退していく。この映画すら、その「興味の減退」から逃れることは出来ない。
彼女たちの最大のライバルは警察のチームだっただろうか?かわいい女子高生のチームだったろうか?それすらよくわからない。彼女たちのキック力は素晴らしいものがあったが、シュートはたまにしか決まらなかった。敵はピッチの中にはいなかった。
だから、この映画のラストはとても悲しい。線路は続くよどこまでも、である。そして、そんな風景にサッカーボールはよく似合う。
なんと2007年見た映画68本目。大晦日に見た映画。カンナさん大成功です!。2006年の大晦日は「硫黄島からの手紙」でシメだったのだが、2007年はこれだった。(なんというう落差!)まあ、なんというか何も考えずに楽しむにはいいんじゃないでしょうか。主役のコはとってもかわいいし。整形ネタとともに音楽シーンが満載で、NANAとかを意識してるのかなという気がした。それはともかく、こういうエンターテインメントに徹した映画こそ、コワイ映画という典型例かもしれない。



