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FOOTBALL OR DIE No.3 |
| 鼻声で歌へ君が代 |
| 文/ビワコビッチ(1998.2.17) |
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長野オリンピックが始まった。連日みんなは日本人選手のメダルを期待し、応援する。「いやあ原田のジャンプ、すごかったねえ。」「清水って背低いね。」などと話題には事欠かない。幾らかのサッカーファンはアイスホッケーとサッカーの類似を発見し、少し魅力を感じているかもしれない。(かくいう僕もその一人だが)そして、3位以内に入賞すると「メダル」がもらえ、「表彰式」が行われ、「日の丸」が掲げられ「君が代」が流れる。それでもってそこでいい加減な態度をとってたりすると怒られちゃったりする。以下nikkansports.comより引用。
フリースタイルスキー女子モーグルで金メダルを獲得した里谷多英(21=北海道東海大)が13日、表彰式の国旗掲揚で帽子を脱がなかったとして、日本選手団本部から口頭注意を受けた。文部省から指摘を受けての処置だった。選手団本部では「基本的マナーは守ってほしい」と困惑顔であったものの、一方で町村信孝文相(53)は「目くじらを立てることはない」と話している。 いややっぱり未だにこういうことにはうるさい方がいらっしゃるのだ。なんということだろう。彼らは中田が「日本国のためにやってるわけじゃないですから。」とさらっと言ってのけるのを聞いたら驚愕するのだろうか?あきれるだろうか? という訳で長い前振りだったが今回はサッカーとナショナリズムがお題。最近サッカーといえば日本代表のことのようだが、本来は違う。草サッカーからはじまって地方のリーグからJFL、そして国内のサッカーの頂点としてJリーグがある。そして国別の世界一を決める大会がワールドカップ、それに出場するのが各国の代表、というだけである。しかし世間ではワールドカップ初出場を決めた日本を祝福し、あたかもサッカーという総体がそこへ向かうためにあるかのように6月へ向けて注目をしている。確かにワールドカップ(やその予選)は象徴的にサッカーを集約してはいるが全てではない。日々のリーグ戦や草サッカーそれらすべてがサッカーの本質であり、そこに群がる人たちこそがサッカーの中心にいるのだ。 しかしサッカーの代表戦になると現れるのが、「日本国を代表して戦う」サッカー日本代表が好きな人たちだ。別に彼らがナショナリストだとか言ってるわけではないが、国家意識を過剰に、たかがサッカーの試合に持ち込む感覚は理解できない。世界各国でそういった現象はは数多く見られるがあくまで国内リーグなどが十分盛り上がっている、もしくはサッカーが生活に根付いている国での話であって、日本や韓国のように国際試合だけが熱狂的に盛り上がる国は異様である。ここであえて語弊を承知で形容すれば、日本ではまだまだサッカーを「オリンピック的な」楽しみとして捉える人間のほうが多いのだ。 「オリンピック的な」楽しみとはどういったものか?つまりそこには、そのスポーツ自体への愛着よりも、国家の名誉や威信が優先し、勝つことのみが目的となる楽しみ方である。今回の長野オリンピックのジャンプやスケートは、確かに見るに値する面白さがあったが(特にジャンプ)、どうしてここまで注目されたかと言えば、理由は一つである。そう、日本人がメダルをとりそうだったからである。もし日本人がリュージュでメダル候補ならそれも注目されただろうし、逆にメダルと縁遠ければノルディック複合などはまるで注目されないだろう。 そういった楽しみ方をする人たちは、メダルがとれなかったときとても悲しそうな表情をする。ジャンプのノーマルヒルで「表彰台独占か?」から「船木の銀1つだけ」になったときのテレビ中継はお通夜のようだった。彼らは本当には競技を楽しもうとしていないし、そんな人々の声援を多く受ける選手は大変だろうと思う。 そしてそこに繋がるのが例の「国」という概念である。近代国家としての「ネイション」の発生は...といった難しい話は後藤健生氏の著作にゆずるとして、日本を代表する選手達が「クニ」に対して何か特別のものを感じなければならないとすればそれは猛烈な「政治」である。試合前の国家斉唱で目をつむり胸に手をあてるカズも、無表情で立つ中田も、等しく選手として評価されなければならない。オリンピックでの国別のメダル獲得状況などは壮大な茶番だ。そんなことに何を見い出したいのだろうか? 僕は去年、ワールドカップの最終予選を含め日本代表の試合を7試合国立競技場で観戦したが、一度も配られる日の丸の小旗は振らなかった。あれよりもはるかに青い旗や、青いビニール袋のほうが美しく見えたからだ。
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