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FOOTBALL OR DIE No.4 |
| Let's Create The Space |
| 文/ビワコビッチ(1998.2.24) |
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まずはいきなりだが下の文章をどうぞ。オンラインマガジン2002japanの掲示板にあった書き込みだが勝手に引用しちゃいます。
インターネットで、いっしょにサッカーをやっている友達以外の人たちの日本代表への感想を知るようになって、はや一年弱。どうも、みんなの言っていることに違和感を感じていたのですが、最近、ようやく理由が解りました。
ニューオーダーのワールド・イン・モーションという曲がある。90年イタリアワールドカップのイングランド代表の応援歌だ。いきなりのニューオーダー節で始まりサビへと曲は展開する。歌詞はちょっと愛国調、途中でつたないラップが入り、そこにはホイッスルの音やスタジアムの歓声がかぶさる。そしてラスト、ここでは選手、サポーターの声らしきものが合わさっての大合唱。
We're playing the song!!
ものすごい大騒ぎである。ここには全てがある。つまり大きなサッカーという円の中に気持ち良く取り込まれている人々の姿とそのときに生まれるパワーについての歌だ(勝手に決めつけてしまうが)。彼らは(これまた勝手に決めつけてしまうが)、しょうもない人生を送っている。昼間は工場ではたらき夜はパブで飲んだくれる。週末はサッカーを見る。そこには投影された自分がいるのだ。チャレンジし、相手DFに倒され、起き上がりゴールに向かって走る自分が。有りえなかったもう一つの人生がフィールドでは展開される。たとえようもなく単純なボールゲームはまるで世界の全てのようにそこでは映る。最も意味のないことが最も重要であるという転倒が、多くの人の思いによって満たされるとき、あの大合唱の意味する所が明らかになる。サッカーが単なるスポーツではない、ということ。これはロックが単なる音楽以上のものであるのと同じくらいには正しい。 「しょうもない人生」はきっかけがあれば変わる。そのきっかけが何なのかは判らないが、フィールドで多くの人の思いに照らされながら走る選手を見ていると、その何かがとても特別なものとは思えない。ストーンローゼスは「オーディエンスが主役だ」とピンスポットを観客席に当てた。それがどの程度まで正しいかはわからないが、ある一面では絶対的に正しいことなのだ。我々は確かにサッカー選手やミュージシャンに何かを求めている。それが単なるカリスマだとしたら冒頭で紹介した投稿の主はきっといつまでも違和感をぬぐい去ることは出来ないだろう。しかしそうでなかったら?もしかしたらサッカーという巨大な円はそれぞれが独立した円をもつ集合体になるかもしれない。 大事なことは楽しむことだ。それなしには何も始まらない。3月1日はダイナスティ杯韓国戦。僕はチケットを手に入れることが出来なかったので、TVの前で観戦する。いい試合になるといいと思う。
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