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FOOTBALL OR DIE No.11 |
| 天気の話でもしようか |
| 文/ビワコビッチ(1998.6.16) |
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R.E.M.の"POP SONG'89"のサビはこんなフレーズである。 「天気の話でもしようか、政治の話でもしようか」そして今日の日本は「サッカーの話でもしようか」となった。青い服を着た人達がテレビの中ではでずっぱりで、昨日の「歴史的な」試合について語っている。アルゼンチン1-0日本。日本は初めてワールドカップで試合を行い、アルゼンチンに負けた。事実はそれだけだ。多くの人がそれを見た。視聴率はBSも合わせると70%近く。えらいことになってしまった。あれだけ前振りがすごかったのだから当然か。 あまりにも加熱するワールドカップ報道に関して、今日までの僕のスタンスはこうだった。つまりこれで新たにサッカーが好きな人が増えればそれでよい。20人ブームに踊る人がいてそのうち何人かが本当にサッカーに取り憑かれればそれでよい。オリンピックのような「ガンバレニッポン」はあほくさいが、その中からサッカーで僕が感じているような何かをつかむ人がいればよいと思っていた。今でも基本的にそう思っている。昨日のNHK総合の山本アナはあくまでサッカーを初めてみるような人にも分かるよう意識して、実況していた。オフサイドや、フォーメーション、カードの意味などとても丁寧に話しながら、分かりやすい放送だった。映像も素人さんむけ。国際映像と違って選手のアップやリプレイが多く洗練とはほど遠かったがサッカーを見慣れない人には、ああいった映像の方が分かりやすいとの判断だろう。僕はOKだと思う。 しかし今日の報道をみて猛烈に違和感を覚えた。テレビは試合の映像よりも各地で熱狂するサポーター達の映像を流すことに腐心し、よくやった!と試合に負けた選手を誉めそやす。いかに選手が戦ったかでなく、いかに多くの人が試合を見たかが重要なことのようだった。それはいままで僕の周りをつつんでいたあいまいな「ここちよくサッカーに取り囲まれている感じ」とは全く違う不快感だった。サッカーからの強烈な圧力を感じたのだ。もし僕がサッカーに全く興味のない人間だったら?今の報道は強烈な不快、理不尽な同質化への圧力としか受け取れないだろう。多くの人が興味を持つ、ということはそのことに対して知らなければならないということとは違う。無関心でいる自由は保証されなければならない。「ポップ」であるということは、ある程度政治力と無縁ではない。そんな政治をともなってしまうポップはいつも僕を不快にさせてきたが、そうでないポップの在り方もあるはずなのだ。ポップであることがその本質への魅力でなく、ポップであること自体によって肯定される自体はなんとしても避けねばならない。そう甘くないことも重々承知の上だが。 フットボールへの魅力はあくまでそのボールの転がり方、プレイヤーの動きと、それを取り囲む人々の思いによって止揚されなければならない、と言ったら余りにも夢想が過ぎるだろうか。しかしそんなはずは無いのだ。もし日本においてこのワールドカップが「いやあスポーツって本当に素敵ですね。」でまとめられてしまったらと思うと恐ろしい。そうじゃないのだ。 残念ながら昨日の試合は、内容の面でも、報道の面でも、革命を起こすことが出来ないという、ひどく歯がゆい結果となった。しかし物事は徐々にしか変わらないのだ。本当の「ポップ」に日本のさサッカーがなるのはいつの日だろうか。早くくればいいのだけれど。 サッカーについて我々が語るとき、「どうすれば日本のフォワードは点が取れるか」ではなく「昨日は点が入らなかったね」と話したい。監督の采配に疑問を持つのではなく、豊かな言葉で自分の見たいゲームの在り方を語りたい。つまらない勝利至上主義も、形だけの内容至上主義も排したい。もちろん唾棄すべき愛国主義も、見え透いたスポーツコスモポリタリズムも排したい。僕は天気のことを話すようにサッカーの話がしたいのだ。天気が良ければ笑い、低気圧がくれば体調が悪くなる。今日はいい天気だったのだが体調が悪く、ずっと家にいた。きっとバティストゥータのせいだ。
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