FOOTBALL OR DIE
No.13
 失語症臨床報告
文/ビワコビッチ(1998.8.4)

 ワールドカップが終わって3週間が経った。フランスが優勝した。僕は無理がたたって体調を崩しているところだ。会社では同じ仕事をしている人で入院者が出た(サッカーとは関係ないが)。今日も世界中の人々はあくせく働いているし、だらだらしてる人は暇を憎んでいるし、楽しんでいる人は楽しんでいる。泣いてる人もいるだろう。そしてその中にはあのワールドカップの狂騒の中に身を投じ、また日常の生活に戻ってきた人もいるだろう。僕もその一人かもしれない。自問する。「そこに、何があったのか?」と。

 僕は完全に失語症に陥ってしまった。フランスが優勝し、喜ぶジダンやプティの笑顔を見て、泣き崩れるレオナルドの姿を見て、両手を高々とあげるフランスのサポーターを見て、僕はほんの少し泣いた。良かった、いいものを見たと思った。ほとんどサッカーをプレイする対象としてしか見ていなかった(でも部活はバレー部)86年メキシコ大会。受験勉強しながら流して見てた90年イタリア大会。日本が出場できなかった悔しさでついつい斜めに構えて見ていた94年アメリカ大会。今回の大会はそのどれにも似ていなかった。恐らく僕は初めてワールドカップを体全体で感じたように思う。そしてそれを感じてしまった後、全く言葉が浮かんでこなかったのだ。何を付け加える必要があるのだろうかと思ってしまったのだ。サッカーはとにかく単純なゲームだ。原則は決して崩されることはない。勝つとうれしい、負けると悔しい、それだけなのだ。そして4年に一度の大きな大会が行われ、いいサッカーをしたチームが勝った、という事実だけが残った。そこにそれ以上の言葉を書き連ねて、汚してしまうのが嫌だったのかもしれない。そしてそれは正しい感覚だと思う。ジダンの笑顔。レオナルドの涙。チラベルトの涙。スーケルの笑顔。それ以上に重要なことはないし、それを補足するための言葉も(お金もうけのためには必要かもしれないが)必要なものではない。僕は失語症に陥ってしまった。これがおそらく初めて体験した「ワールドカップに心を奪われてしまった」代償なのだろうと思う。

 今巷にあふれているワールドカップ後の世界を語る言葉はどのようなものだろう。技術的なタームでは、フランスチームの素晴らしく洗練された守備を語り、オランダの極めて勇気にあふれ、有機的なつながりをもつシステムが評価されている。個人にスポットをあてるなら、ロナウドを襲った正体不明の強迫感や、イングランドの「ワンダー」オーウェンの未来が語られる。「国家」に目を向ければ初出場で3位になったクロアチアはついに「祖国」を手にしたと言えるだろう。彼らの活躍は強烈な「ネーション」の誕生を見るような気がした。

 どの言葉も、ある程度の水準であれば、無駄なものではないだろう。しかし本当にいい試合(テクニカルな意味だけでなく、総体として)をさらに増幅したり、その言葉自体が魅力を持つような言葉には僕は残念ながら出会えていない。小説について語る批評が、批評としての魅力を湛えるように、音楽につき動かされた人がつくるさまざまなものが、そのオリジナルを越えるように、サッカーによて焚き付けられた思いはどこかに辿り着かないのだろうか。僕はそんな言葉を発したいと望んではいるのだが、3週間が経過した今、敗北感を感じ始めている。うまく何かをいい表すこと、それが目的なのではない。サッカーを見て何かを感じ、それを言葉にしてみようとする試みこそが重要なのだ。言葉にならないこと、それは全てフランスのフィールドで表現された。これからはそれが各国のリーグに散らばり、さらに草サッカーに拡散していくだろう。その流れはまた4年後に集約される。そうやってサッカーは続いていくのだ。僕の試みもまた、継続されなければならない。そう思う。

 今はJリーグの試合が見たくてたまらない。たしかにワールドカップを見た目には、随分しょぼく見える試合もあるだろうが、それでも何か見てみたくて仕方がないのだ。「俺は昔からサッカーみてたからさあ」みたいな特権意識などけしとんでしまえ。恐らく日本の人の多くは今回のワールドカップこそが初の「絵空事でない」ワールドカップだったはずだ。その目にさらされる日々のリーグ戦は、どのような軌跡を描くだろうか。99の凡庸があり、1の奇跡が発見されるはずだ。それをこの目で見てみたいのだ。きっと、そのうち何かをまた語り出したくなるに決まっている。まったくどうしようもないと自分でも思う。





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