|
FOOTBALL OR DIE No.19 |
| 不自然な、そして自然なクラブの誕生 |
| 文/ビワコビッチ(1999.2.10) |
|
ここ数回はフリューゲルスのことばかり書いていた。少し取り乱してもいたし、今書かなければいつ書くのだという思いもあった。それも今回で一区切りとしたい。99年のシーズンはもうすぐ始まるし、そこには明るいフィールドが広がっている。大幅な経営規模の縮小で、知ってる選手がほとんどいなくなってしまったベルマーレ平塚や、逆に大量の補強で知ってる選手だらけになった名古屋グランパス、様々なクラブがまた我々の前に姿を現す。その姿を見つめるときに余計な思いを持ちたくない。フリューゲルスの問題はいつまでも澱のように残っていくだろうが、そのことばかりを見ていてもしょうがないのだ。「今年はどこ応援すんの?」とこの間友人に訊かれて改めてクラブが消滅した事実にがく然とした僕だが、気持ちは常にASローマのように前がかりである。ローマ同様、ディフェンスがおろそかでもあるのだが。 横浜フリエスポーツクラブ。サポーター有志が設立した新会社の名前である。サッカーに限らずあらゆるスポーツの振興を目指すという意味もあって、フットボールクラブ、サッカークラブという名前にはならなかった。市民参加型のクラブを目指すという点でもほぼ完全にJリーグの理念を体現しようとする意志がある。FCバルセロナなどを参考にして、市民が会員権を買ってクラブの運営に参加できる「ソシオ」という制度も作られ始めた。つまり大企業による出資ではなく多くの市民による出資でクラブを支えようとする試みだ。成功すれば「企業スポーツ」「学校教育スポーツ」という日本的な在り方を根底から変えうる制度だ。 そして昨日、このクラブが擁するサッカーチーム「横浜FC」が今季のJFLに参加出来ることが濃厚となった。Jリーグ、J2の更に下のリーグである。最短で2002年にはJリーグに昇格出来る。そしてある程度のチーム運営が軌道にのった段階で「横浜FC」は「横浜フリューゲルス」の名称を譲渡してもらうよう横浜F(*CKIN')・マリノスに交渉するだろう。しかし僕はもう名前などどうでもよいとさえ思う。「フリューゲルス」という名前が多くの財産をもっていることも確かだが、この試みが成功すればたかだか7年程の名前などに拘泥する意味はさしてないように思える。それ程までにこのクラブの成功は大きな意義がある。 このクラブの誕生を語るとき、多くの人は「世界でもめずらしいサポーター主導によるクラブチーム」という言い方をする。それはその通りだ。しかしだから偉いという言い方は間違っているのである。企業や大金持ちのオーナーに左右されない、真の市民球団。確かに聞こえはいいし、間違った考え方ではない。しかし同時に「サポーター」が自分達の応援するチームを1から作る、ということがいかにイビツな出来事であるかも忘れてはならない。ヨーロッパでのクラブの誕生は、大ざっぱに言ってしまえば、最初に街の草サッカーチームがあり、それが企業や金持ちや市民の金銭的サポートを受けて徐々に強くなり、プロの集団になった、ということになる。つまり自然発生的にプロチームが生まれたのだ。日本の場合はそうでなく、企業の福利厚生の一環としてのサッカー部がその起源である。それが理念なき広告屋と、スタジアムを建設したいゼネコンなどの思惑と、代表チームを強くしたいサッカー協会によって無理やり作られたのがJリーグというプロリーグなのだ。そして今回の「横浜FC」は日本的プロチームの起源を短期間でヨーロッパ型に置き換えようとする少々強引なショートカットなのである。よい小説を読みたい人々が結集して、よい小説家を養成する機関を作ったらどうだろう?よい音楽を聴きたい人が、よい音楽家を養成する機関を作ったらどうだろう?とてもそれはイビツな出来事に違いない。本来我々がサポートしたい、と思う対象は自分たちで作るのではなく「ただそこに存在」すべきなのだ。(もしくは自分で何かを創りだして、誰かのサポートを受ける、というのも当然アリだ。)多くの似たような存在の中から自分の好きなものを選ぶ、そうして多くの人の心をつかめなかった存在は淘汰されていく、これが最も自然な在り方だと思う。「横浜FC」はそこにただ存在したのではない。理不尽な強制力によって、自分達の好きなクラブを奪われた人々が、その心の空白を埋めるために設立したクラブなのだ。それはとてもイビツではあるが、不可避なことであるとも言える。サポーターには、理不尽なクラブの消滅に対抗する手段が他になかったのだから。 "if you can't change the world,change yourself/if you can't change yourself,change the world."とはTHE THEの曲にある名フレーズだが、サポーターのとった行動は、こうした古典的とも言える自分と世界の関係性改善のセオリーに従っているのだ。そのこだわりを偏執狂的だと感じる人はきっとこのクラブをただのイビツな存在としてしか認識出来ないだろうし、理不尽さに対する正当かつ、効果的なカウンターだと思う人は応援を惜しまないはずだ。僕の立場は明確に後者である。僕はソシオに年間3万円払うつもりでいるし、ムダ金になっても構わないとも思う。それ以外にどんなやり方があるだろう。 不可解な判定でPKをとられてしまった。1点のビハインド。このとき優れたフットボーラーならどうするだろう?彼は決してふて腐れることなく得点を狙いにいくだろう。そこにはルールがあり、そのルールに従うことは、彼がそのフィールドに足を踏み入れた瞬間に合意したことなのだ。理不尽さを理不尽だとわめいていてもいずれ勝敗を決する笛は鳴る。敗北を受け入れたくなければそうならないよう動くしかないのだ。横浜FCはそうやって走り出した。
|
|
|