FOOTBALL OR DIE
No.20
 がんばれ!「××××」・シーズン開幕に向けて
文/ビワコビッチ(1999.3.1)

一体いつサッカーを見に行けばいいんだ?時間が無いわけではない。「何を」見たいのか分からなくなっただけだ。去年のシーズンまでは「横浜フリューゲルス」という贔屓チームがあったから、東京在住の僕も何度か横浜に出かけた。しかし今やそのチームは消滅し、J1、J2の更に下に位置するJFL所属の「横浜FC」にその面影を留めるのみである。勿論「横浜FC」の試合は見に行くつもりだがそう回数は多くないだろう。(僕は「ソシオ」の会員として年間チケット無しのコースを選択した。)レベルの高いJ1リーグに比べれば横浜FC vs 国士館大学というカードに魅力が少ないのは無理からぬ話である。やはり有名な選手、巧い選手が多くそろったチーム同士が戦うゲームにお金を払いたいし、道義だけでサッカーをみる訳では無いのだ。J1だって去年なみには見にいきたい、と思うのは自然なことでしょう?

そしてついに今週の土曜日からJ1が開幕する。J1、J2と2つのカテゴリに別れて戦う最初のシーズンだ。J2は3/14に開幕する。日程を眺めてみる。多くのカードが組まれている。どの試合のチケットを買おうかと悩む。しかし各節毎の対戦カードを見てもどうも焦点が定まらないのだ。原因は軸となるチームの不在である。

知的サッカーファンを気取っている僕としては、ゲームの勝敗はそう重要なことでは無かった。よいゲームが見れればそれで良いと思っていたし、横浜フリューゲルスを贔屓にしだしたのも、比較的好みのサッカーを展開していて(「ゾーンプレス」が合い言葉になっていたころ)かつ近くにあるチームだったからだろう。もし東京にチームがあったらそこを応援していたのではないだろうか?きっかけはその程度のものだ。だからたとえそのチームが見られないからといってサッカーを見に行かなくなるのはおかしいことなのだ。今期は東京のチーム、FC東京が誕生したし、ご近所の国立競技場は今年前期のアントラーズのホームスタジアムでもある(鹿島は工事中のため)。横浜まで足を伸ばせば、横浜マリノスに移籍した多くのフリエの選手の活躍が見られるかもしれない。その気になればいくらでもサッカーを見に行けるのだ。しかし今僕は少し途方にくれてしまっている。何か去年はあった熱意のようなものが失われているのだ。僕は熱心なサポーターではなかったがぼんやりと「フリューゲルスが優勝して欲しい」という思いを抱いてリーグに臨んでいた。それは熱意というよりはスタンスといった方が適切かもしれない。それはむかし僕が考えていたサッカー観戦に対する矛盾でもある。「いいサッカーが見られればそれでいい」なんて言ってた人間が1チームの勝敗に拘るなんて!しかしそれは知らず知らずの内に身につけてしまっていたスタンスなのだ。そういえばナショナルチーム同士の試合もそうだ。僕は「国の為に」なんて言葉は吐き気がする程嫌いだし、国威発揚のためのサッカーなど消えてしまえとも思っている。声高にニッポン!などとは決してコール出来ない。しかし、ワールドカップ、ジャマイカ戦のタイムアップの笛が鳴り、日本の3戦全敗が決まったときのあのなんとも言えない陰鬱な気持ちはなんだったのだろう?僕は明確に、とても強く、日本に勝って欲しいと思っていたのだ。僕はいわゆる「サポーター」と自分の間には明確な距離があると思っていたが、そうでもないのだ。

一体何がこの数年の間に起こったのだ?

それは簡単なことである。僕がこの世界の流儀になじんだだけの話なのだ。いや出発点が間違っていたのかもしれない。僕らが育ってきた学校体育の中で、新聞やスポーツニュースが取り上げるサッカーの中で、繰返し使われてきた言葉、概念、そもそも「スポーツ」という言葉。それら全てが意味するものがサッカーの本質とかけ離れていたのだ。我々はそういった概念にとらわれているのですぐにサッカーに意味を求めたりしてしまう。「スポーツ」は健全な肉体の為にある手段であって、ことさら勝敗に拘るのは愚かしいという考え方。オリンピックでメダルを求めるくせに、その勝利よりもその影にある勝者の物語に酔ってしまう報道。(彼らはスポーツにまつわる美談が大好きだ。)勝敗ではなく内容です、全力をつくして戦ったのだから悔いはありません、両者を称えたい、という紋切り型の言葉。スポーツは世界の共通言語なのです、というある面では正しいが、何か大切なものをぼやけさせる言葉。そういったサッカーの本質からかけ離れた言葉でサッカーに接してきたせいで、僕は大切なものを見失っていたのだ。

サッカーとはゲームである。ゲームには勝者と敗者がいる。時に「引分け」という着地点も用意されている。勝ちと負け、それが最も重要なファクターなのだ。そのゲームを見つめるとき、もしくは選手として参加するとき、我々は勝利を目指すことが「ゲーム」を成立させる最低条件である。それがない、空虚な「意味」を求める言葉のみで飾られたゲームなどゲームではない。だから多くの人はサッカーというゲームをみるとき、どちらかのチームに所属し、その勝利を求める。ワールドカップでは自国を応援し、クラブ同士の対戦では地元のクラブを応援する。日本においてもバルセロナやユベントスやマンチェスターUのサポーターが多数存在する。それはおそらく、各国リーグ中継の充実によって、世界中のリーグを見るようになった人々が、否応なくどこかのチームのサポーターに所属してしまったからなのだ。応援するチームもなくサッカーを眺めることはひどく退屈なことに違いない。全く興味のないチーム同士の対戦であっても、試合を見終わるころにはどちらかを応援してしまうだろう。事実僕は、先日夜中に放送されていたアジアクラブ選手権決勝(韓国のチームとサウジのチームの対戦)で、いつのまにか韓国のクラブの応援をしていた。サウジは汚く時間稼ぎをするだけの退屈なチームだったからだ。そして韓国のチームが負けたとき(ほんのちょっとだけ)悔しかった。

僕はきっと各カテゴリの中で好きなチームを探すだろう。JFLでは横浜FC、J2ではFC東京、これはもう決まっている。J1では・・やはりしばらくどこかを中心に見ることは出来ないだろう。それは仕方のないことだ。

ゲームに臨むとき、ルールに従うこと、勝利を目指すこと、最後まであきらめないこと、これはどこかこの世界を生きることににている。僕も含めてサッカーを人生の暗喩のようにとらえる人は少なくない。しかしこの文章を書きながら気づいたことがある。サッカーがこの世界の暗喩なのではなく、この世界ががサッカーの暗喩としてあるのだ。この世界のどこにも「勝利を目指さなければならない」などという決まりはない。対立する複数の存在があるとき、その中のどれかに所属しなければならない、という決まりもない。ただ、そのようなフィルターを通して眺めるととても分かりやすいだけなのだ。





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