FOOTBALL OR DIE
No.23
 「政治的に正しい」フットボーラーは誰だ?
文/ビワコビッチ(1999.4.7)

 ユーゴスラビア連邦に対するNATO軍による空爆が開始された。もしそのあたりの事情を知りたければ検索エンジンで適当に調べてみて下さい。NATOおよびアメリカを肯定する意見もあれば、非難する声もある。明確にかつ静かに空爆に反対するのが僕のポジションだが、ここではそれについては触れない。しかしこれに関連して一つ問題が発生した。僕らの国にあるプロフットボールリーグである「Jリーグ」のチェアマンが、リーグで活躍するユーゴスラビア出身の選手に「試合で戦争に関連するアピールは自粛するように」と決めたようなのだ。

 空爆が開始されて最初の週のJリーグ。名古屋グランパスエイトのドラガン・ストイコビッチは得点を決めた福田健二と抱きあい、そして自分のユニフォームをまくりあげた。そのアンダーシャツには「NATO STOP STRIKES」というメッセージが書かれていた。浦和レッドダイアモンズのペトロビッチは「NATO AMERICA IS KILLER」というメッセージを、自らの得点後、やはりアンダーシャツによって示した。アビスパ福岡のマスロバルとガンバ大阪のドロブニャクは、それぞれ得点をあげ、試合後のインタビューでNATOを非難する声明を発表した。

 そしてチェアマンは言ったそうだ。「スポーツの世界に政治的アピールを持ち込むべきではない。選手はそのプレーによってのみ評価される」というような内容のことを。しかし、そんなことは断じてないのだ。本当に政治とスポーツは互いに関連してはいけないものなのか?もしそうなら、モスクワオリンピックをボイコットした西側諸国も、内戦を理由に、ユーゴスラビア代表の国際試合を長い間禁止したFIFAも、その決定を受け入れた全ての国も、全てが間違っていることになる。しかし現実はそう簡単ではない。政治によってサッカーの世界は、常に多くの影響を受け続けている。もちろん経済からも莫大な影響を受けている。宗教からも。政治と無縁である人間などいない。もしそうなら、全てのフットボーラーは一切のチャリティーも行ってはいけない。だって、養護施設とフットボールに何の関連があるというのだ?

 サッカーは絵空事ではないし、美談だけが支配する世界でもない。政治、宗教、人種問題、金、金、金。それら全てを受け入れながら、毎日世界のサッカーは動いているのだ。そのことは誰もが知っていることだし、これからも変ることはないだろう。そして、そんなサッカーの世界に、自分の生まれた街が破壊されることを非難する選手がいることに、どんな不自然さがあるだろう。彼らは多くの観客の前でプレーすることを許されたプレーヤーだ。そして彼らは、ビスマルクがゴールを決めた後、神に感謝を捧げるの同じように、セザール・サンパイオが「KAMISAMA ARIGATOU」とアンダーシャツに書いたように、フランス代表カランブーが、ラ・マルセイエーズを決して歌わない(故郷の島を核実験場にされたことへの抗議)ように、自らのアピールをしただけなのだ。例えばチベタン・フリーダムコンサートを、「政治と音楽は無縁であるべきだ」と言って非難することに、どんな意味があるだろう。この世界で、そこで起こっている事柄と無関係でいられる大衆文化など存在しない。「純粋な」サッカーが存在するとして、それに人を引き付けるものがあるだろうか?自らの主張を、フィールドでする選手もいればしない選手もいる。どちらが正しいという問題ではない。僕らは人間を見に行っているのであって、興行主によって規制された行動規範を忠実になぞるだけのモノ達を見たくはないのだ。「メッセージがダメなら、喪章をまいてプレーする」と言ったストイコビッチから、その喪章すらも外させたJリーグは、本当に犯罪的なことをした。

 その次の試合、またも得点を決めたアビスパ福岡のマスロバルは、得点の後ユニフォームをまくりあげた。またもやNATOへの抗議文か、と誰もが思った瞬間そこにあったのは、彼が昨年まで在籍したその日の対戦チーム、ジェフ市原のアンダーシャツだった。「ジェフサポーターへの感謝の気持ち」であるとマスロバルは語ったそうだが、果たしてそれだけだろうか?喪章をすることさえ禁止する、Jリーグへの痛烈なジョークであるように僕は思った。本当に困難なとき、人はときとしてジョークでその感情を解放する。

 その昔、ラモスはヴェルディの試合に於いて腕に日の丸を巻いてプレーした。そうすることで、「気持ち」が入るという理由だった。ストイコビッチには是非、次の試合では腕に星条旗を巻いてプレーして欲しい。





FOOTBALL OR DIE | バックナンバー一覧へ