FOOTBALL OR DIE
No.27
 凡庸なる日々に
文/ビワコビッチ(1999.5.19)

 僕が恐れることは沢山ある。貧乏が怖い。肥満が怖い。老化が怖い。暴力が怖い。そして凡庸であることの繰返しが怖い。凡庸であることは恐れることではない。それ無しには上手く行かないことだって多くある。しかし、そういった事に慣れきってしまってただ凡庸さを繰返していくことは恐ろしいことだ。「こう決まっているから」「今までそうやってきたから」「それが普通だから」といった言葉でその根拠を与えられる凡庸さを憎むことで、人は思考停止から免れる。思考停止したい人のことをとやかく言いたくはない。しかし彼らの振る舞い方に、自分も付き合わされるのはゴメンなのだ。常に考え続けること、そして常に分からないことがあること、これは素晴らしいことではないだろうか?

 一体何のことを言っているのだろうか?ここではサッカーについて書くはずでは無かったのか?そう、それは間違いない。その為になぜか凡庸さについて話してみたくなったのだ。

 5/16に国立西が丘サッカー場でJリーグディヴィジョン2の試合を見た。FC東京0-1川崎フロンターレ。僕にとっては今季4戦目となるFC東京の試合観戦だったが、「負けるべくして」という感じで負けてしまった。薄曇りで少し肌寒い天気のせいか、それとも連戦の疲労が溜まる時期なのか、東京の選手達の動きはどこかぎこちなく、後半30分に川崎に先制点を入れられるまでは得点しようとする意欲すら停滞しているように感じられた。相手はここ数年の間、JFLを共に戦ってきたライバルチームである。川崎と東京は他のどのチームより近接している。だからこそ起こるダービーマッチのような雰囲気があるのではないかと僕は期待していた。しかし川崎のサポーターの数はとても少なく、選手の動きも東京に比べれば良いという程度のものでしかなかった。天気のせいも当然あるだろう。その前日には雨が降っていたし、僕も前売りを買っていなければ観戦をとりやめたかもしれないような寒さだった。そして、それにつられるように(もしくはその逆かもしれないのだが)僕の座ったほぼ満員のバックスタンドの席も、空席の多い年間指定のメインスタンドも、ゴール裏のサポーター集団もなぜかこの日はもの静かな雰囲気に包まれていた。アクの強いコールが自粛されているようにも感じた。今まで大手を振って笑いながら歩いてきた男達が、なぜか少し内省の時を迎えているようにも感じた。

 そんな雰囲気も最後の15分間には変った。ホームで負ける訳には行かない。この程度の完成度の相手に負ける訳にはいかない。そういった感覚が選手とそれを見つめる者達を鼓舞したのだろう。それなりの熱狂をスタジアムにもたらして(それはまるで老練なポップミュージシャンがライブの終盤にヒット曲のメドレーをするように)、そして試合は川崎のプラン通りに終わった。まだまだ先の長いリーグ戦だが、だからと言ってこれが意味のない敗戦だと言う訳ではない。セリエAにて、中田英寿の所属するペルージャの残留への戦いを見ている僕は今身をもって学習しているところなのだ。つまり「どんな試合にも全て重要な意味がある」ということを。勝ち点を3点とるか、1点とるか、もしくは相手に3点献上するのか、それはサッカーというゲームを一年を通した連続性のあるものに仕立てあげる大事な要素である。その場の熱狂や落胆は、数字の形で累積され、降格や昇格や現状維持という来年度のステータスの決定材料となる。「応援するクラブがある」サッカーの観戦者にとって、これが日々のリーグ戦が「生活」であることの理由なのだ。重要でない試合など一つも存在しない。それはスポーツマンシップがどうのという問題ではない。それが次の自分たちの生活に関ってくるのだ。(もっと正確にいうなら「絶対にサッカーなどで自分の生活が変ることなど在りえない」というのも真実なのだが。)この敗戦は、他の敗戦と全く等しい価値を持っている。僕らは軽はずみな拍手を選手に送ることは出来ない。僕らが敗戦を喫した選手に送る拍手は「健闘をたたえる」という空虚な言葉以上の意味をはらんでいる。

 おそらく、(本当に推測でしかないのだが)FC東京の観戦者は、今まさに自分達とクラブとの関り方を見定めようと苦闘しているところなのだ。東京という多くの差異がそのままの形で存在しうる土地で、サッカーはどのような形で生活になっていくのだろうか?それは鹿島は浦和や清水や札幌とは違うことは確かだ。沢山の子供達がいた。ちょっとオタクっぽい大人がいた。初めて観戦に来た女の子がいた。東京ガスフットボールクラブが出来た頃から見続けている人もいただろう。今、小さな規模だったクラブがより多くの人の目に触れようとする過渡期にある。このクラブはどんな風に「ポップ」になっていくべきなのだろうか?

 僕はゴール裏の住人ではなく、あくまでサッカーを横から眺める人間だ。大声はたまにしか出さないし、きっとアウェイにまで応援に行ったりはしないだろう。しかしそのような差異はさして重要ではない。それぞれの観戦者が、それぞれのポジションで上手くサッカーを見ることが出来ることが重要なのだ。幸いにしてFC東京は(そして多くの下部リーグのクラブは)そうやってじっくり環境を作ることが許されている。慌ててポップになる必要など、どこにも無い。

 サッカーに於いては、(映画や音楽や小説だって同じだろうが)送り手から提供されるモノをただ享受していれば良いわけではない。作り手の差し出すものをただ喜んで消費するだけの人間は、とても控え目に言って「ばかもの」だろう。ばかものになるのが嫌だったら、その時は考えるのだ。凡庸な日々の、ある凡庸な夜に、僕はそんなことを考えている。





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