FOOTBALL OR DIE
No.28
 偶然の音楽
文/ビワコビッチ(1999.5.25)

 5/22。最近の僕は全くもってよくサッカーを見ている。去年はクソ忙しくて、ほとんどの週末はどちらか一日がつぶれたが、今年は大丈夫だ。この日も天気が良かったので国立競技場まで出かけた。鹿島アントラーズ対名古屋グランパスエイト。不調を囲っている両チームの「完全なる消化試合」は名古屋が福田健二のVゴールで勝利した。そしてこの日の国立は、全く優勝争いに関係のない、そしてどちらも地元のチームでない試合にも関らず、27000人もの観客を集めたのだ。鹿島にはユース組の本山、中田、曽ヶ端がいるし、名古屋にはピクシーがいる。人気者は強い。天気も重要だ。それだけ入ればとりあえず寂しさはない。東京の人間はサッカーに飢えている、と感じた。FC東京が未だ貧弱な収容人員のスタジアムで戦っている現在、やはり国立競技場での好カードは見逃せない、そう考える人間が多いのだろう。だから僕のように、特に熱烈にどちらかを応援する訳ではないような人間が多く見受けられた。そういった種類の人間が望むことは一つ。いいゲームを見ることだ。

 そして、その願いはある程度かなえられた。鹿島は3バックにシステム変更し、柳沢を1トップに配し、より中盤でのプレスを厚くしようとする作戦。名古屋は平野、山口、トーレスを出場停止で欠きながらも、相変わらずのピクシー頼みでチャンスをつかもうとする展開になった。

 前半の鹿島。トップ下で自由に動き回る本山は、全く機能しない。中途半端なポジションでドリブルを開始しては潰される。柳沢は機能しない中盤には関りあいたくないといった風にひたすらトップから裏のスペースを狙う。それでも名古屋のピリッとしない動きに助けられ、それなりにチャンスは作っていた。一方の名古屋はかなり適当な動き。福田、岡山、望月、そしてピクシーの攻撃陣はそれなりに個人でがんばるがそれだけ。呂比須はいるにはいたが、まだ名古屋のチームの一員でないかのようだった。彼は前の方にいるボール扱いのウマイ、只のオッサンだった。何をしたいのか、どう動くべきなのか、呂比須に関しては何も決まっていなかった。なんだか哀れだった。
 それでも先制は名古屋。コーナーキックからのヘッドの折り返しを福田がつめる。しかし鹿島も柳沢がオフサイド気味に抜け出し、そしてハンド気味にトラップし、しかしすばらしいシュートを決めた。この日の審判はこのシーンを含め終始あいまいなジャッジだった。
 後半。鹿島は本山が効果的にチャンスを作り始める。前半と変って、左サイドに大きく張り出すように位置し、そこでボールを貰うと効果的にスペースを使って攻めた。彼にはこのような位置こそがふさわしい。狭い局面でのドリブルではなく、スペースを上手く生かしたドリブル。中田も、鈍重な動きを繰返す相棒の本田をしり目に、タイミングのよい攻撃参加で名古屋を脅かす。しかし肝心なところで決められず、結局試合は延長に入った。

 そして延長前半の14分に、縦一本で抜け出した福田がいつも通り気合の入りまくったシュートを放つと試合は終わった。名古屋は最後までピクシーに何をすべきがお伺いを立てながら試合をしていたし、そうでない選手(例えば望月など)はただ頑張っているだけだった。そう、このチームに必要なのは戦術の再徹底である。それがなされない限り、ピクシーの奮闘はいつまでたっても悲しい響きをピッチに残すだけだろう。どんな華麗な個人技も、周囲との美しい連携があってこそ映えるのだ。本山を上手く生かす術を見つけた鹿島と、ピクシーの気持ちばかりが空回りする名古屋。結果は逆だったが、むしろセカンドステージへの希望を見つけたのは鹿島だろう。

 サッカーの美しさは、その偶然性と必然性の調和にある。ボールと選手、そして選手と選手が作り出すスペースは、無限のバリエーションでもって、常にどちらかのチームへの危険を生み出す。ボールが一度転がりだしたら、すぐにそれに対応した動きがあらゆる地点で始められる。その動きの有機的な繋がりが、更に次の状況を作りだし、ボールは様々な転がり方をし、選手はそれに応じた動きを即始める。一般に高いレベルの試合というのは、この「偶然」の部分が可能な限り「必然」のコントロールのもとにある試合を指す。ボールは選手の思った通りにトラップされ、最高のポジションにいる味方に最高のタイミングでパスを通し、それを受けた選手がダイレクトでゴール前にいる選手の前方にボールを蹴りだすと、そこにはFWの選手を囮にしたMFの選手が走り込んできて目にも止まらぬ早さでゴールに蹴り込む。そんな光景が全て意図した通りに繰り広げられるのが高いレベルとされる。確かにそうだ。

 確かにそうなのだが、ではなぜサッカーは常に強い方のチームが勝つわけではないのだろう?やはりそれは「偶然」の要素を決して排除することは出来ないからだ。素晴らしいシュートもポストに当たってしまうことがあるし、味方の選手に触れて方向が変ることもある。最高のトラップをしたと思ったら適当に走ってきたDFの選手にかっさらわれることだってある。人間がその不完全な足によってボールをコントロールするサッカーでは、永遠に偶然の作り出す状況から逃れることは出来ないのだ。得点の確率を可能なかぎり高めようとすることが、そして失点の確率を可能な限り低めようとすることが戦術であり、サッカーの美しさである。始めにスコアがあり、それにそって完ぺきな演奏を目指すようなスタイルはサッカーが奏でる音楽ではない。偶然をなんとか制御しようとする意志、自らが考える音をなんとか鳴らそうとする工夫、その中での成功や失敗の記録がサッカーなのである。

 この日の両チームは全くモチベーションなどないような状況の中、なんとか美しい音楽を鳴らそうと苦闘していた。僕は名古屋側自由席の最上段近くにいたのだが、見に来ていた子供たちの人気No.1はやはりピクシーだった。誰よりもその音楽の美しさを知っている彼がボールを持つと、ボールは何らかの必然を感じ始めたように動きだす。そして大抵の場合、それはすぐに偶然の波の中に紛れてしまうのだ。そして彼は探し続ける。次の必然がやってくる瞬間を。





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