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FOOTBALL OR DIE No.31 |
| フィリップ・トルシエを批判する100の方法 |
| 文/ビワコビッチ(1999.6.16) |
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ワールドカップの始まる前、そして期間中、フランスのレキップ誌は、フランス代表監督、エメ・ジャケを猛烈に批判するキャンペーンを繰返していた。その反発の結果としてかどうかは分からないがジャケの率いるフランスは優勝を果たした。今年になってもレキップの記者は「我々は間違っていなかった」という主旨の文を発表し、ジャケに敬意を表したり、謝罪する意志は毛頭ないようだ。あのワールドカップから一年が経った。去年の6/14、日本はアルゼンチンに負けたのだ。そのアルゼンチンはオランダに負け、オランダはブラジルに負け、ブラジルはフランスに負けた。そうやって優勝国が決まった。それからもサッカーは休むことなく動き続けた。本当にいろんなことがあったなあ、と感慨にふけってしまう。 さらに時間をさかのぼって、4年前のことを考えてみる。1995年の6月。日本代表は1992年のアジアチャンピオンとしてイングランドに招待され、ウェンブリーでイングランド代表と戦っている。日本は山口素弘が現地プレスにも絶賛されるなど、善戦したが結局2-1で敗れている。得点者は井原(日本)アンダートン、プラット(イングランド)。柱谷が退場になった試合だ。ちょうどその頃、日本オリンピック代表はアジア1次予選を戦っていた。前園、城、小倉を軸とする攻撃陣は文句無しに美しく、タイ、チャイニーズタイペイを下した。その前のオリンピック予選(バルセロナオリンピックはアジア予選で敗退)の時はJリーグ開幕前でもあり、サッカーにあまり興味がなかったから全く何も知らなかった。しかしこの予選は違っていた。前園は僕の好きなフリューゲルスの中でも、割と好みの選手だったし、小倉はやはり「なんかスゲエな」と思って応援していた。そんなチームが挑む予選だし、その前のワールドカップ予選で「アジアの真剣勝負」の面白さを知った僕にとってはこの予選は注目の大会だったのだ。(そういえば「笑っていいとも」に出演した小沢健二が「今オリンピックチームがマレーシアで合宿してるんですよね、頑張って欲しいなあ」なんて言ってたのを思い出す。その合宿で小倉は怪我してしまい、最終予選には出場出来なかった) それから4年が過ぎた。更に次の世代が、今度はシドニーオリンピックの出場権をかけてアジア予選を戦っている。前回は「タイはなめるとまずいぞ」という緊迫感が漂っていたのだが今回はそういった緊迫感を与えてくれる程のチームも無さそうだ。普通にやれば日本は最終予選に進出するだろう。またあの「予選」というピリピリした雰囲気が戻ってくるのだ。(残念ながらアジア地域の1次予選は予備予選の開催を検討すべき時期に来ている。フィリピンとの試合では練習にもならないだろう)前回はチャレンジャーとして挑んだ日本だったが今回は少し違うだろう。何しろワールドユース準優勝という肩書きまで手にしてしまったのだから。「悲願」だった予選突破は「ノルマ」になってしまった。 あの頃と違うのは、そういった状況だけでは無い。監督をめぐる状況が違うのだ。当時の西野監督は知名度もさしてなく、フル代表との兼任でもなかったからさほどメディアの注目を浴びなかった。しかし今回はフル代表と兼任のトルシエである。彼は少々変人扱いされる人物で、また言葉の問題もあるから報道する側との齟齬も多い。これから開催される南米選手権での内容次第では、「解任か!?」という物騒な話も出てくるだろう。「このままトルシエに任せてもいいのか?」という2002年至上主義者もまたぞろ現れてくるだろう。今回の予選でも、放送時間の大半を費やしてトルシエを批判する解説者がいる。もううんざりだ、というのが正直な気持ちである。 監督批判というのはある種の保険である。何かが上手くいかなかった時責任をとる、それが監督の仕事でもあるから仕方のないことでもある。サッカーを批評する立場にある人間は、自分の立場を保証する為に、あるいは自分の見識を誇示する為に、そして純粋にチームを強くするために、監督批判を行う。加茂監督が更迭された時、ほれみたことかと多くの「サッカーを観るひと」が騒ぎたてた。やっぱりジーコが良かった。否、ファルカンを続投させるべきだった。ネルシーニョが良かった、という議論である。そしてもし今回のオリンピック代表が予選敗退などの事態に陥ったら、また噴き出すだろう議論だ。その時に「だからオレは言ってたんだよ」と言いたいが為に、巧妙な表現でもって監督を批判しておくのが常道なのだ。 もうそろそろ、我々はサッカーを批評することのメソッドを確立する必要があるだろう。僕はトレーニングの専門家でもないし、戦術に詳しい訳でもないが、少なくとも物事を語る、その方法については哲学を持っている。今のサッカーに関する批評の仕方は幼稚なものが多く、そういったもの程マジョリティに届くメディアに載せられている。彼らは自分たちの語ることについて責任の取り方を考える必要がある。そうでなければ批判される監督とフェアな状態でないからだ。少なくともレキップの記者は署名入りで記事を載せている。セルジオ越後も逃げ隠れしないだろう。その意味で最も罪深いのは、無署名で掲載されるネガティブ・キャンペーンである。トルシエを批判するのは簡単だ。彼がやったことの逆のやり方が正しかった、と主張すれば良いのだから。サッカーにはそれだけの数の「やり方」が存在する。提出された解答に対して、それは違うというだけの行為には何の知性も工夫も必要ない。それには軽い悪意と自己保身のエゴがあれば十分だ。少なくとも僕は「監督の批判をする」という行為になんの興味も持てない。常に決定することを要求されるサッカーというゲームにおいて、選手と同様に監督も常になんらかの決断を迫られている。模範解答のないその問いに対して、常に責任を持って答え続けるのが監督の仕事なのだ。最低限の敬意が、そのことには払われるべきだ。彼以外の人間は、決断する権限もないが、責任も持たない。そのことをただ受け入れるのは諦観と呼ばれる態度かもしれないが、ヒステリックにわめく行為は「なすりつけ」である。その中間点こそがサッカーを批評する場であり、我々が探るべき場所なのだ。 でも、ここまで書いてから言うのもオカシイ話だが、僕が興味があるのはそういった部分ではない。そんなことは映画を見るときに「演出」だけについて語る程度の行為だからだ。サッカーは決して監督采配に集約されない。日本代表はフィリップ・トルシエに集約されない。サッカーはもっと多くのことを物語っている。
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