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FOOTBALL OR DIE No.32 |
| 僕らは何に帰属しているのか? |
| 文/ビワコビッチ(1999.6.23) |
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あまり大きな声で言う程のことではないかもしれないが、僕がサッカーを見続けながら考えているのは、どうすれば日本代表は強くなるか?ではないし、名波はセリエAで通用するかどうか?ではないし、勿論、小野伸二は最高だ!でもないし、市原はエンゲルスを解任するべきだったのだろうか?でもない。ヴィエリがインテルにとんでもない移籍金で移籍することもどうだっていい。横浜FCが勝ち続けてくれれば嬉しいし、FC東京が来期J1に昇格出来れば最高だとも思うが、その事がサッカーを見続けている動機ではない。これらの事柄は全て大事なことかもしれないけれど、サッカーの周辺の出来事のように感じる。それが周辺なら一体中心は何なんだ?と言われるかもしれない。ものすごく簡単な言い方をすれば、中心は自分自身にある。サッカーを観て心を揺り動かされてしまうこと。勝利に酔いしれ、敗北に悔しがること、選手、監督、観客、そしてそれを伝えるメディアの在り方、それが全ては最終的に自分の中に入り込み、何がしかの感情を呼び起こす。その仕組みを理解してみたいのだ。それは全てこのコラムの中で書いたこと(もしくは書かなかったこと)の中に潜んでいるのだが、あまり明確な形では書かれてこなかった。今、リーグ戦も落ち着きオリンピック予選がただ義務的に行われている。(休まず動き続けているのはJFLだけだ。)その時期に何か一つまとめてみたくなったのだ。来週になればJ2も再開され、南米選手権が始まる。そうすると僕はまたその中に飲み込まれていくだろう。 それは「帰属心」の問題に帰結する。サッカーはゲームであり、勝者と敗者が誕生する。その時に喜べるのは勝者であり、それに帰属しているものだけである。その勝利を味わいたいが為に観戦者はどちらかのチームに帰属するのだとも言える。つまり帰属している選手やサポーターの為に勝敗は決するのではなく、勝敗に対して喜ぶ(悲しむ)為にどちらかに属する必要が生まれるのだ。 ナショナリズムの問題を考えた。僕のようなハンパなサヨク人間が、なぜ「日本代表」チームにこれほどまでに影響されてしまうのだろうか?という問題だ。その問題も上記の考え方である程度納得がいく。計らずも文芸春秋社のNumberの最新号にこんな言葉がある。「国があるから闘うのではなく、サッカーで勝つために国がある」と。これは日本で暮らす南米人達のサッカーな日々に関する記事で目にした文章である。この結論めいた言葉が必ずしも真実とは言い切れず、「国の為」のサッカーが存在することは厳然たる事実だが、さしあたっての解答を僕にもたらしてくれる言葉ではある。その昔「全日本」と呼ばれていたチームが「日本代表」と呼ばれるようになったことも、この考え方と無縁ではないような気がする。彼らは日本のプレイヤーの代表ではあるが、「全ての」日本を背負ってしまう義務などどこにもないからだ。マイナーなスポーツの代表チームとしての「全日本」は未だに有効かもしれない。その呼称によって一括りにされてしまうことに対する違和を訴える人が少ないからだ。しかしサッカーがこれだけ浮上してきた現在、「全日本」という呼び名は余りにも現実から乖離してしまっている。あのチームは日本を集約している存在かもしれないが、日本のサッカーの全てではないからだ。 そんな風にして、どこかに帰属することを見いだした我々は、そこに居続けることで得られる満足感、安心感、連帯感にとりあえず冒される。ネガティブな感情としては、帰属することによって生ずる敵対心、危機感、暴力性をも手にする。それらの感覚に対して、全く違和を感じない人間はいつまでもその中で安住していられる。僕は多少の違和を感じながらも(あえて確信犯的に感じないふりを装うことで)その中に取込まれようと試みる。どちらだって同じことだ。その運動の中は、とても心地よく、理解が容易で、永続を望まれている。 今まで書いたことは、「帰属感」に対するノートに過ぎない。このノートは時間を見て書き継がれていくべきだろうと思う。ただ今の時点で思うことは、(少なくとも僕は)サッカー以外のモノがもたらす「帰属することで得られる安心感」を信用しなくなっているということだ。それは巧妙な同化政策であり、思考停止への最短ルートだ。サッカーは世界で最大の同化装置かもしれないが、同時に全ての違和を増幅させる装置のようにも見える。だから、見ることをやめられない。 南米選手権が始まる。「南米」選手権に参加する「日本」という最大の語謬を、日本代表チームはどのように乗り越えるのだろうか?そこに待っているのは純粋なゲームである。
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