FOOTBALL OR DIE
No.33
 How does it feel? To be on your own
文/ビワコビッチ(1999.7.7)

 日本代表にとっての南米選手権が終わった。ボリビア戦の始まる前、NHKの山本アナは「何かを見失っています」と放送の最初の言葉を放った。日本代表のおかれている状況を端的に表現する言葉だった。彼の最初の言葉はいつだって、そういった示唆にとんでいる。会場には深く霧がたちこめ、それはまるで彼らが陥ってしまった状況のように視界を遮っていた。試合が始まると、選手達はパラグアイ戦で崩壊した何かを取り戻す為に懸命に走っているように見えた。試合は1-1で引分だった。日本はいくつかの惜しいチャンスがあり、いくつかの危ない場面があった。勝ったかもしれないし、負けたかもしれない試合だった。ほとんどの試合はそういうものだけれども。

 オリンピック代表の一次予選が、小野伸二の怪我とフィリピンのGK、パランパンの涙で幕を閉じた。こちらは完全に日本が勝つということが分かって行われた試合だった。今回の予選では、もしかすると大番狂わせを演じるような可能性があるのはマレーシア一国のみ、という状況で無駄に2回戦が行われた。次回もこのような予選形式が行われるのだろうか?小野の怪我はこのような意味のない試合を沢山行わせる予選形式にも一因があると思う人も多いだろう。僕が国立で観戦した限りにおいて、フィリピンチームは特に汚い訳ではなかった。(マレーシアの方が数倍危険だった)彼らはどんな大差になってもフェアに戦い、しかも諦めたようなプレーは少なかった。これほどの実力差のあるチームを戦わせることに問題があるのだ。そしてもう一つ。パランパンは確かに下手なGKだったが、スタンドで観戦するものに彼を嘲笑する権利はない。彼をあざ笑う人たちはサッカーに取り憑かれた人ではなく、ただのくだらないサディストだろう。

 そうやって、代表の青いユニフォームはしばしの休息に入った。少しホッとした気分でいる。代表の試合には、普段サッカーに見向きもしないような人の視線が混ざる。その少し濁った視線や、もしくは普段からサッカーを気にしているように見えて、その実日本代表しか応援するチームがないような人の熱すぎる視線が、僕を少しげんなりさせてしまうのだ。ナショナルチームの試合は、確かにそうやって増加する視線が持つプレッシャーが、魅力にもなっている。しかし、ここで強く言っておきたいのは、「日本代表が強くなるためにサッカーがあるのではない」ということだ。まるで代表が全てであるかのように、わめきたてる人々のことが理解出来ない。それはとても大切なオプションかもしれないが、その為にみんなサッカーをやったり見たりしてる訳ではないのだ。最悪のパラグアイ戦の後に、横浜FCが横河電機に勝ち、FC東京がコンサドーレ札幌に勝った。僕はそのことでパラグアイ戦の情けない情景を忘れることが出来た。

 そして、やはりトルシエを批判することで「大事な、大事な」日本代表を評しようとする人間が出てきている。そういう人たちの出現は予想されたことだが、トルシエは今のところ窮地に追い込まれた、という程の状況ではないようだ。それはそうだと思う。彼を救っているのもまた、声高に彼を批判する人間が持っているものだからだ。それはある絶対的な「分からなさ」である。熱心に試合を見ているものも、実際のところ、何を代表の試合に求めているのか分からないのである。例えば南米選手権を無理やりワールドカップに次ぐ大きな大会、と位置付けて、付け焼き刃的に権威を知ろうとしても、日本に住むものにとってその価値を南米人並に高めることは難しい。無理やり「今のA代表の技術はユース組より下」とか「トルシエ戦術の限界が見えた」とか「昨年のワールドカップチームとの比較論」を述べてみたところで、見ている人間が「背が否でも予選突破して欲しい」と微塵でも思っていない現状では、議論の為の議論に過ぎない。(そうで無ければ中田や小野や柳沢がパラグアイに行かなかったことに対してもっと批判が出るはずだ。あのチームは最強チームでなかったのだから)パラグアイ戦で見られた「どうしようもなさ」は、チームだけの問題ではないのだ。我々見る側と、メディア、双方に突き付けられた問題である。そういった状況全てを踏まえてトルシエが「勝ち点1は論理的な結果だ」と言ったのは全くもって正しい。そしてその「わからなさ」がある限り、トルシエは安泰だと言える。

 オリンピックの1次予選にしても、ある程度勝つことが分かっている状況で、何を軸にして熱烈に応援すれば良いのか分からないのだ。そこに「コンビネーションの確立」、や「レギュラー争い」や「フラットスリーの問題点」を争点に仕立て上げても、サッカーの最終目標である「勝利」が既得権になっているような状況では白けるばかりだ。小野や中村の素晴らしいパフォーマンスを見ていると、「彼らは東京じゃなくパラグアイにいるべきだ」とも思えるし、「最終予選の為の準備として、このチームで試合をすべきだ」とも思う。そういった分裂があるかぎり、この予選を的確な論点でもって批評することは困難だと言える。

 ボリビア戦で、濃霧の中でプレイする選手を見ていると、彼らが本当に孤独な戦いをしているように見えた。何かが崩れそうになり、それを必死で持ちこたえているといった感じだ。見る側、批評する側が明確な立場を表明していないのに、選手達は常に最高のモチベーションとパフォーマンスを要求されてしまう。技術がない、衰えた、気持ちが足りない、と言われる。それが彼らの仕事なのだと言ってしまえばそれまでだが、本当にそんな言葉で納得出来るだろうか?「どんな気がする?」と彼らに聞いてみたくなる。





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