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FOOTBALL OR DIE No.37 |
| サッカーを書く、ということについて |
| 文/ビワコビッチ(1999.8.31) |
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サッカーの観戦者は多くの場合、ひいきの選手を持つ。先日行われたラモスの引退試合で国立競技場が満員になったのは正直驚きだったが、彼がそれだけの魅力を持つ選手だったということの証だろう。会場に集まった人たちは素晴らしいサッカーの試合が見たいというよりは、ラモスという素晴らしいプレイヤーの最後のプレイを見たいと思ったのだ。別におかしなことでもなんでもない。サッカーのゲームはスターを作る。スターは人々を魅了する。京都パープルサンガにカズが移籍したとたん、西京極の入場者が倍以上になったのも同じことだろう。ラモスの場合と違うのは、カズはまだ現役を続行する意志を持っていて、京都という2部降格阻止が目標であるチームの戦力であるという点だ。京都からすればただ客が入ればいいという訳ではない。僕はその復帰ゲームを渋谷のスポーツカフェで観戦したが、やはりカズの得点には拍手が起こっていた。今の京都で最も重要な選手は遠藤だと思うが(そのプレイはフリューゲルス時代の山口素弘を思わせる)、だから遠藤がカズより注目されるべきだ、などとは思わない。スターはスターである。それで何の問題もないと思う。 Numberの478号を読んでいて興味深い記事に出くわした。金子達仁氏の書いている「いつかどこかで」という連載コラムである。テーマは「スポーツライター」で、スポーツライターになるにはどうしたらいいのか?と問われた金子氏が彼なりのスポーツライター論を書いているのだ。曰く「文章の巧さよりも人に愛される能力がある人が良い」「スポーツ選手は卑屈で媚を売ってくるような人間を警戒する。自分に自身をつけることが大切だ」と述べている。金子氏の考える「スポーツライター」像が明確にされていて非常に興味深い。 つまり彼はスポーツライティングとは「人間」を描くことだという信念があるのだろう。スポーツのヒーロー(そしてヒーローでない人)の内面を文章にしようとする試み、プレイだけでは分からない部分を伝えたり、プレイに表現されていた「意味」を読み解くこと、これが彼の考えるスポーツライティングの根幹なのだろう。例えば彼が川口能活や中田英寿と親しくて、その交友を著作の中で書いてしまうのは、あくまで「人間」を描くという彼の信念に基づいたライティングのやり方なのだ。僕はそのような彼の文章を嫌っていたのだが、ここまで明確な信念を提示されると単純に非難することが出来ない。僕は彼を非難するだけでなく、その「やり方」の是非までも論じなければならなくなるからだ。 ただ、彼が自分のやり方に信念があるのなら、トルシエ監督批判などはすべきでないと思う。トルシエという「人間」を読み解こうとせずに彼のやり方を批判するのは金子氏的ライティング哲学に反しているからだ。勿論、「批評」というやり方と「人間を描く」というやり方が両立しないと言っている訳ではないが、彼の文章はドキュメンタリー作家としては優秀であってもサッカー批評家としての力量は未だ明らかではないからだ。彼がコメント的に述べるサッカーの批評は深みに欠け、参考になるような発言は少ない。しかしこれは些細な矛盾点に過ぎない。そんな矛盾をあげつらうことはこの文章のメインではない。(彼のような人には一般のメディアに載る発言や文章には特に慎重になってもらいたいと思うのだが) そう、始めに書いたようにサッカーはヒーローを作る。その活躍に心を奪われた人々はヒーローがどのようにプレイするかだけではなく、もっと多くの情報を求める。どのような経歴なのか?いつも何を考えながらプレイしているのか?彼の内面に深く入っていき、彼のことをより「理解」したいとファンは願う。それはとても自然なことだし僕だって全く興味がないと言えは嘘になる。しかし、そのような文章はあくまで参考程度に機能すべきものだと思うのだ。つまりサッカーが本来持っている熱をより効果的に伝える文章、正すべき点を正確に指摘する文章、それらが正常に機能してこそ傍流としての「人間」ライティングは機能する。適切な批評の視座を確保しえないまま、いたずらにヒーローにのみ言及してしまうのは危険なことである。つまりそれはスキャンダリズムへの堕落である。選手のことをより深く理解したい、というだけの思いがいつしか多くの人を巻き込んで消費財としての「人間」が作られる。それはとてもくだらない出来事だしサッカーとは無縁であって欲しい現象だ。 多くの人にとってサッカーとは、自分でやったり試合観戦する対象であっても文章として摂取するものではない。サッカーについて書かれたことが無くてもサッカーは成立するからだ。そして僕は多くのサッカー観戦者は「サッカーについて書かれたもの」の正しい読み方を心得ていると思っている(少し楽観的過ぎるかもしれないが)。そして危惧すべきは非サッカー観戦者へのサッカーの伝えられ方である。彼らに正確で、サッカーの魅力を伝えるような文章が届かないことは悲しむべきことなのだ。まだまだこの国の中にはサッカーに取り憑かれる可能性があるのに、サッカーに出会っていない人たちが多くいるはずだ。言葉は、まずそこに届けられるべきだ。
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