FOOTBALL OR DIE
No.46
 青と赤の天国へようこそ
文/ビワコビッチ(2000.3.22)

 ニック・ホーンビイ「ぼくのプレミア・ライフ」はフットボールに関する書物で最も僕の気持ちに近いものだ。「初めての午後のフットボールのことは、よく覚えていない」の書き出しで、語られる初観戦の記憶。彼が見たゴールはPKだったらしい。あのゴールをそんな風に記憶する東京の子供がいたら・・・と夢想した。

 3/11、Jリーグディヴィジョン1開幕。横浜M0-1東京。3/18。東京2-0福岡。2試合とも東京は集中を切らさず守り、勇気を持って攻めあがり得点をあげた。得点者はツゥット(21歳、好きなタレント:志村けん)、佐藤由紀彦(24歳、好きなタレント:中谷美紀)アマラオ(33歳、好きなタレント:長淵剛)の3人である。はい、東京のファンの人はここで拍手。

 予想もしなかった結果だけど別に奇跡ではない。2節を終えた段階で東京はJ1の首位に立った。生まれて初めて「年間チケット」なるものを購入し、クラブにその忠誠を示してしまった僕は、思いがけないアメを与えられてしまい、少々うろたえている。基本的にはマゾヒスティックな悦びの変種のようにサッカーに取り憑かれた僕のような人種には、こういう事態は少々面倒なことになる。僕はチームの悪い点、今後心配な点を必死になって探し、決してこれから先を楽観してはいけないことを100回以上自分に言い聞かせる。そうした上で初めて、「いやあよかったよかった」と勝利を喜べるのだ。30試合のうちの2試合が終わっただけで、東京の2000年シーズンがどうなるのか占えるのなら、そもそも1年間のリーグ戦をやる意味などない。だから僕は相変わらず心配性のままだし、東京というチーム自体も同様に心配性のようだ。選手も監督もサポーターも、その「程度」は同じだった。だから僕らはこんな2試合を手に入れたのかもしれない。サッカーというチームスポーツにおいて「意識のシンクロ」が重要な要素だとされているのは、決してピッチの上でのことだけではない。東京というクラブを取り巻く人々全体の意識が合っていたから、僕らはあのゲームに喜べたのだと思う。

 その「心配」とは何か?別に大層なもんじゃない。「J1では通用しない東京スタイルのサッカー」であり「結果としての2部降格」である。とにかくそれが恐かったから選手たちは集中して自分たちのやり方を貫くことが出来たのだろうだし、僕はその姿に声援を送ることが出来た。そしてその結果に胸を張れた。その共通した認識の前には全ての東京に対する批判めいた言葉は力を失ってしまう。(決して批判の意味がないと言っている訳ではない。スポーツライターなら書いておくべきことなのかもしれない。)

 曰く「退屈なカウンターサッカー」だの「アマラオ(ツゥット?)頼みの攻撃陣」だの「部活サッカー」だの「腹立たしいサポーター(誰も言ってないか?)」だのの言葉は僕にはまるで意味をなさない。それどころが全てが誉め言葉に聞こえてしまう。それは僕が倒錯した感覚の持ち主だからではなくて、そのような言葉に縛られてきた自分から上手く抜け出した(別の次元にきてしまった)ということを意味する。つまりサッカーの傍観者(先進的なシステムや、試合の意義や、プレイの芸術性や、果てはサッカーの持つ社会的な意義や、そんなものが重要であるとする立場)から当事者(いかに勝ち点を奪うか、いかに上位のリーグに踏みとどまるか、いかに観客を呼ぶか、そして「自分」が「彼等」と同一であることを理解する)への転向が(いつのタイミングでかは分からないが)起こったということなのだ。内容じゃなくて結果だ!なんてことが言いたいわけでは決してない。大切なことは、そのチームの監督、選手個人、フロント、サポーターが持っている意識が明確にシンクロしていることなのだ。そうであれば結果と同じように、そのゲームに対する評価の仕方はきれいな形で論点の一致を見るだろう。今の日本代表の試合で、いつも試合後にくだらない論戦が始まってしまうのは、ひとえにこの「意識の統一」がなされていないことに原因がある。何を代表チームに求めるか、のコンセンサスがとれていない状況でトルシエの是非を問うなど時間の浪費でしかない。(トルシエと選手の間にはあるようだが、メディアやサポーターとの間にそのような合意は結ばれていないようだ。)

 なぜ東京にはその合意があるのか?ちょっと考えればすぐ分かる。選手個人の実力差。他チームとの総合力の比較。今までやってきたやり方を守るほうがチームの完成度は高くなるという事実。現実的な戦い方としてカウンターサッカーを選択するのはとても自然だし、その程度のことなら理解できる人間が東京に付いてきている。(日本代表のように、無駄で無能なおしゃべりが大好きな批評家や、大してサッカーに熱意のないような自称サポーターに見守られていないのも幸運なのかもしれない。)東京だって、状況によっては極めてリスクの高い守備陣形で、芸術的な中盤のパスワークで、ファンタジックなゴールを量産しなければ認められないときがくるかもしれない。でもそれは今求めることじゃないのだ。

 どっちにしろ、サッカーに幸せな合意や、美しい他者との関係性など無縁だとする考え方もアリだろう。だが僕は、なるべくならずっと不満ばかりを口にしているサポーターにはなりたくないのだ。楽しいと辛いの比率で言うなら7:3くらいで楽しいほうがいい。贅沢な比率かもしれないが、その為には常にリアリズムにさらされている必要があるし、それはそれで忍耐のいる行為なのだ。

 しかし、たとえば数十年後、東京が世界の強豪として名をはせスタメンにずらりと各国代表レベルをそろえるようなチームになってしまった時に、今のような戦い方をしていたらどう思うだろうか?それはその時になってみないと分からない。今まで書いた論理に従うならば、僕はそんなチームに呆れ返るべきかもしれない。でもそんな風に論理的にサッカーなんて見られないのだ。だから、そればかりはその時になってみないと分からない。本当に。

 福岡戦の試合終了間際、三浦ヤス(カズの兄ちゃん)を始めとする福岡の選手達ははどうにも荒っぽいファールで東京の攻撃を止めた。そんなとき、ツゥットはボールを持つやコーナーフラッグに向って一直線に走り、あからさま過ぎる時間かせぎのポーズをとった。子供じみた、しかし気の利いた報復行為。それがこんなに痛快に感じるなんて!僕はツゥットが好きになった。チームにほれている状態とはこういう状態のことかもしれない。

 この2試合、観客席にいて幸せだったのは、見ている人間の態度にも原因がある。ブーイングを浴びせたいと思う瞬間、チャンスをみすみす逃すプレイに舌打ちする瞬間、拍手を送りたい瞬間、敵をからかいたい瞬間、そこに大きなずれがなかった。そのような観客に見守られながら、徐々に大きなクラブになっていけばいい。東京旋風など不要である。調子がいいときも悪いときも、ともに上がったり下がったりするのが僕らのいたい場所なのだから。

 東京との試合を体験していないチームはまだ13もある。彼らにとって東京はどんな味がするだろうか?まずくて固くてとても食えたもんじゃない、まるで食欲をそそらないキッツイ匂いのするチームであって欲しい。そしてかれらが苦い表情を見せたときには(それ程多くないかもしれないが)、僕はイヤらしく笑ってみせるのだ。「青と赤の天国へようこそ」と。





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