FOOTBALL OR DIE
No.51
 オートマティズム・フォー・ザ・ピープル
文/ビワコビッチ(2000.6.30)

 フィリップ・トルシエが好んで使う言葉に「オートマティズム」がある。チームが集団的に力を発揮するために持つ、連動性、意識のシンクロ、約束事、そんな概念を総称してオートマティズムと呼んでいるようだ。別に他のどんな言葉にでも置換可能な一つのスローガンに過ぎないのだろうと思う。ディシプリンでも勿論良いし、ゾーンプレスでも良いし、全員攻撃全員守備でも良い。トータルフットボールでもセクシーフットボールでも何でも良い。言葉などにさして深い意味はない。言葉よりもサッカーそのものの方が余程雄弁に様々なことを語るのはよく知られた事実だから。

 しかし「攻撃の型を持っていない」などど批判されながらもかたくなに、「型」を作ろうとしなかった(あえてしていないように僕は思う)トルシエが、その自らのチームがもつべき力をオートマティズムと呼ぶことには非常に興味を覚える。彼が随分と熱心に語っているのは「主張しろ!」であり「自分で考えろ!」だと僕は思うのだが、その哲学とオートマティズムという言葉は一見矛盾するように見えるからだ。選手にあくなき自己主張と闘争心を要求しながら、しかしオートマティズムをチームに植え付けたいという彼の欲求は、なかなかに正直で面白い。(そもそもサッカー自体が集団と個人の危ういバランスのゲームなのだろう。)僕はそんな彼の矛盾を孕んだ正直さがどんな風なチームを作ってしまうのか、見届けてみたい。

 例えば高い位置で積極的にプレスをかけてボールを奪い、素早くサイドに展開してパスの巧い選手から足の速い選手にパスが渡り、センタリングでドン!というのは随分とありきたりだけどオートマティズムの一つだ。でもサッカーは不条理が荒れ狂う現場だから、そんな約束事をどんなに正確に繰り返したところでブレイクするポイントがやってくるとは限らない。反対にひどくきまぐれで、適当な展開の中から素晴らしいゴールが生まれたりする。だから本当に優れたコーチとは、約束事を完璧に覚えさせる調教師のように振る舞うべきではなくて、ときには予期せぬ事態や、とんでもない不条理にも耐えうる個人を育成する教師であるほうがベターだ。カリスマなどもってのほかだ。現代において、カリスマほど短命な存在はない。

 オートマティズムのないチームなどありえないから、勿論それは求める。だけどオートマティズムに寄り掛かることの危険性を知っていれば、それを越えた個人のビルドアップするしかない。とても理に適った考え方だ。今の代表に選ばれている選手はそのあたりのバランスを理解して、随分と逞しくなってきていると思うのは、甘すぎるだろうか?まあだからこそトルシエに固執する必要などもはやないという考えも成立するのだけど。

 僕らサッカー観戦者はどうだろうか?オートマティズムに毒されすぎてもいけないし、ある程度のオートマティズムがなければスタジアムで一体となって楽しむことも出来ない。だから僕はいつも自分が陥る熱狂や落胆に、安易な同化作用が入り込んでいないか注意している。勿論全ての同化作用から自由でいることなど、狂人でない限りありえないから、簡単に否定することはしないけれど、僕は所謂「紋切り型」の表現や「お約束」の行為が大嫌いだ。

 たとえば敵のゴールキックの場面では、流れもクソも関係なくブーイング。味方が倒されれば、内容を問わずブーイング。反対に広いスペースにパスが通れば、状況に関らず拍手。サッカーにおいて意識のシンクロは限りなく美しいが、型にはまった観戦スタイルはとても下品だ。僕は「お約束」的に喜んだり、ムカついたりしたくてわざわざスタジアムに行ってるわけではないから、余りに定型化した態度には、かなりげんなりしてしまう。くだらないバンドのライブ会場みたいな雰囲気(みんなでコブシを突き上げてサビでは大合唱みたいな)は全然ロックじゃないし、フットボールでもない。みんな自分で踊れよ。誰かの許可を貰ったうえでなく。

 先週の土日。土曜日は国立でFC東京とマリノスの試合を見て、日曜日は三ツ沢で横浜FCと本田技研の試合を見た。ユーロはまとめて後日ビデオを借りる予定だけど、時々は酒を飲みながら見てる。そんな日々。別にそこで、上に書いたような不快を感じたわけではないのだけど(むしろ僕が好きな2チームにはそんな日本のサッカーに対するアンチの要素があると思っている)、未来のことを考えていたらこんなことを考えてしまっていた。二年後、ワールドカップがやってくる。その時、アホみたいに世間は盛り上がり、日本の予選リーグ突破についてみんな口に泡して語り合うんだろう。それはそれで悪い光景じゃないけど、そのときにみんなが話す言葉の出自が気になって仕方がない。みんな自分の言葉で、自分の考えで話すことが出来るだろうか?どこかできいた言葉を切り貼りし、再構築しただけで「自分の意見」を手に入れていないだろうか?もしくは「トルシエ解任派」とか「支持派」といったくだらない党派性に属することだけで、満足してしまっていないだろうか?サッカージャーナリズム的紋切り型の言説が世の中を席捲し、それぞれの脳みそを通過しない言葉ばかりを聞かされるのはごめんだ。

 紋切り型やお約束の世界から逃れることは難しい作業だ。それなしで社会は成立しないだろうし、安易に「既成概念を壊せ!」などと言う奴ほど胡散臭い奴もいない。しかしながら、考える余地があるのなら考えてみるべきなのだ。僕はサッカーをそんな風に世界全体に対する突破口のひとつのように捕えてしまっている。それこそ大きな勘違いだよ、と注意される前にサッカーファンをやめるべきなのだろうが、そういう訳にもいかないのだ。なにしろ、"FOOTBALL OE DIE"っていうくらいだからね。





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