FOOTBALL OR DIE
No.52
 無意味という名のフットボール
文/ビワコビッチ(2000.7.18)

 本格的に暑くなってきて、こんな時期は難しいことを考えたりしたくない(いや、こんな時じゃなくても余り考えない日々なのだけど)。先週の土曜日、酷暑の中の午後2時キックオフで東京vs清水。日曜日には午後1時キックオフで横浜FCvs栃木SC。いや、昼間のゲームだけを抜き出すのはフェアじゃないかもしれない。夜7時キックオフであってもそれは昼よりほんの少しマシというだけの話だ。普通でもハードなサッカーというゲームが、今の時期ほど見ていて辛くなる時はない。なんで外に出るのすら億劫な季節に、90分間(場合によっては120分間!)走り回らなければならないのだろう。全くプロサッカー選手なんてなるもんじゃない。

 何を言っているんだ、奴等はプロなんだから当然だという意見もあるだろう。おっしゃる通りだ。そしてそんな試合を見る為にお金を払ってるのは僕らなのだ。僕は、先週の水曜日、江戸川競技場の蒸し暑い観客席で、相変わらずのことを考えていた。何を一体求めてこんな所に来てるんだ?ということを。試合に入りきれないでいる時、ついつい僕はそんなことをぼんやりと考えてしまう。選手は噴き出す汗まみれになりながら走り、ゴール裏は服を脱ぎ捨て声を枯らし、僕もまとわりつくジメジメとした空気と戦いながらそこに居続ける。何かを期待して。でもそれが起こることは極めて稀で、大抵の場合はやれやれといった面持ちでそこから去るのだ。

 ナビスコカップ。昨年のFC東京が勝ち進んだせいで、妙に親近感を覚えることとなったこの大会も、敗退してみればそのシステムとして未熟さばかりが目立つ。負けた東京側にはリーグでがんばればいいさ、という開き直りの感覚が宿り、勝った京都には、ここで勝ってもJ2に落ちたら意味ないじゃん、という引き攣った笑顔が残る。すっきりとした「勝てば嬉しい、負ければ悔しい」の図式がぼやけてしまっているのだ。

 非常に苦しい日程の中、あくまでリーグを最優先とする現場の判断は正しいはずなのに、今年は例の「ベストメンバー問題」(詳しくはこちらとかこちらをどうぞ。)のせいで更に空虚な感覚を味わうこととなった。一体かのチェアマンは去年のFC東京がマリノスに勝った試合のメンバーをご存知なのだろうか?(あれは東京のベストメンバーじゃなかった。)現在の限りなくシェイプアップされたサッカーの観戦者(スタジアムまで行く人のことを指す)層は、ベストメンバーでないからと言って残念がる程初心ではない。サブが出場の機会を得るのであれば、それはそれで楽しむことが出来るくらいの頭脳は持っている。もしそういった合理的なメンバー同士の試合であったなら、僕らのぼやけた感情は、もう少しマシな着地点を見いだせるはずだった。いくら暑さで頭がやられていても、あのベストメンバー問題の罪深さくらいは誰だって理解しているのだ。でもきっとチェアマンは言うのだろう。「こっちは君たちのようなお馴染みさん相手に商売やってりゃいいって訳じゃないんだ。新しい客をつかみたいんだよ」と。

 もっとも分かりやすく、しかしもっとも許し難い致命的な判断ミス。コア層を軽視し、やみくもに浮動層に色目を使い、あげくそのどちらからも愛想を尽かされる。(2002年のチケット問題も全く同様の問題を孕んでいる。詳しくはこちらへ。)物事を人に理解してもらうことのもっとも近道は、その本質をアピールし続けることだ。媚びた戦略や、上っ面の理解しやすさや、見せかけの華やかさはあっという間に化けの皮を剥がれてしまう。子供用に短縮され、要約されたドストエフスキーの「罪と罰」を読んで(僕は昔読んだことがある)、いったいどれだけの人がその本質に気づくだろう。多少の困難は承知の上で、完全版を読む勇気を、奨める勇気を持たなければどんな物事も本質にたどりつくことはない。勿論これは、僕がマーケティングも何も知らない部外者だから発言出来ることであって、実際には(というかこの世のほとんどは)本質などどうでもよくて、それなりにパッケージを施してメディアと広告が結託すれば、大抵のものは「売れて」しまう。それが現実だ。

 ナビスコカップに意味を求めるとすれば、それはサッカーになど意味はない、ということを皆に理解させる絶好のチャンスだということだ。仮想的にリーグ戦は意味を持たされ(昇格や降格)、あたかも僕らはそれがこの世の天国や地獄であるかのような醜態を演じるけど、それが持つ空虚さは理解している(少なくとも僕はそのつもりだ)。だから、あくまで3位以上が貰える賞金くらいしか「意味」を見いだせないカップ戦であっても、その勝ち負けの重要さはそう変わらないはずなのだ。だって僕らはあくまで「勝利」という入れ物に入った何かを見たいだけで、その入れ物が何であるかは副次的なものだからだ。

 ユーロ2000で、皆は優勝したフランスよりも、イタリアの戦いぶりについて多く語りたがる。不愉快を表明する(しすぎる!)人もいれば、あのリアリズムにしびれたという人もいる。それはつまり僕らのような第3者があの大会を楽しむとすれば、優勝という結果よりもそういった意味のないところにあるなんとも形容しがたい何か(イタリアの執着心、ポルトガルの美しさ、等々)に感応するからだろう。そもそも意味なんてありはしないのだ。あるのは無意味をとりまく圧倒的な感情の数々だけ。

 そもそもサッカーにもワールドカップにも意味などありはしないのに、さも社会的に、倫理的に、国際化という訳の分からない御題目的に、意味のあることであるかのように宣伝し、煽り立てて、それで「盛り上がる」状況を作り出そうとするのは一体誰だ?政治家もマスコミもサッカー界の人たちも、無駄な努力はやめた方がいい。サッカーはただ純粋にサッカーであって、意味なんて必死で探そうとすればするほどつかめないものなんだよ。最近では、ナビスコカップがもう少しシステムとして機能するように、日程や大会の開催方法等を掲示板で冷静に議論してるサッカーフリークたちの姿が、とても清々しく感じられた。それこそが実効的で、「意味のある」行為だ。

 意味を血眼になって追い求める姿、逆に最初から本質を伝えることを諦めて、くだらない包装紙でごまかそうとする姿、そのどちらも美しさからは無縁だ。僕は何よりも、このクソ暑い中で試合をやらされて、文句一つ言わず(言ってるかもしれないけど)必死で走り回っている選手の姿が何より信じられる。プロサッカー選手なんてなるもんじゃない、と言ったのはただの負け惜しみかもしれない。意味のないところで全力を尽くす、その姿に限りなく憧れるから、そんな風に走ってみたいと思うから、クソ暑かろうがクソ寒かろうが、クソ忙しかろうが、サッカーの近くに居続けようとするのかもしれない。





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