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FOOTBALL OR DIE No.55 |
| さよならベイビー |
| 文/ビワコビッチ(2000.9.25) |
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オリンピック。日本代表が準々決勝で負けた。なんとも憂鬱な瞬間から24時間以上が経過し、ようやく僕の頭の中から痺れたような感覚が薄くなってきたところだ。僕は選手でも監督でもないからその程度で「次だ次」なんて言うことが出来る。選手達も号泣してるような選手はいなかった。このチームは中田英寿の影響なのか、妙な大人っぽさを持っていた。でもやっぱりサッカーの残酷さはどんな瞬間に襲ってくるか分からなくて、その波に飲まれるようにこのチームは最後の試合を終えた。 でも、チームの終わり方としては、随分と逞しい終わり方だったと思う。誰も通用しなかった、なんて思わないだろうし、逆に自分の力を出し切った、とも思わないだろう。トルシエもナイーブさを露呈したように思うし、この不完全燃焼的な感じがそのままアジアカップへのモチベーションになればいい(今回選出されなかった選手も含めて)。言い訳は星の数ほど言うことが出来るけど、誰一人保身の為の言い訳を言わない。サッカーファンやにわかファンやマスコミを含めて、誰も的外れな美談を捏造したりしないし、ヒステリックな糾弾を始めたりはしない(もしかしたら一部の頭の弱い評論家はするかもしれないけど)。でも、このなんとも言えない静かな悔しさが、サッカーという時間が過ぎていく感覚にとてもマッチしているような気がする。サッカーは負け続けるゲームだ。ベースとなる感覚は負けることである。イタリアだってブラジルだって負けた。それぞれが持つ感情は似ている。それは繰り返しだ。負けて勝って、勝って負けて、負けて負け続けて、やっと勝って勝ち続けて、やっぱり負ける。そんな疲れるループの中から、誰も抜け出そうとしない。徒労感、疲労、悲しみ、怒り、そして一瞬の歓喜。それはこの運動の中に取り込まれてしまった者たちが、まるで至極当然のことのように受け入れてしまう、延々と続く繰り返しだ。気持ちいいとか、気持ち良くないとかは関係ない。僕はもうこの感覚を、自分の人生と切り離せないものとして認めてしまっている。 シドニーで4試合しか出来なかった。でも随分と多くの人が注目してサッカーを見た。「普段サッカーなんて見向きもしない癖に代表の試合だけは盛り上がる人」を僕は多少の皮肉めいた苦笑でもって眺めるけど、別に腹を立てたりはしない。僕だってかつてはそんな人だったのだ。そのうちの何割かはやがて「こちら側」にやってくるのではないかと思う。僕は別に「こちら側」が素晴らしい世界だよと人に勧める気は毛頭無いし、人として間違ってるとか正しいとか思わない。ただここにはここのルールがあるだけだ。ここにはいつの時代になっても、納得のいかないジャッジをする審判や、憎たらしいくらいにガッツのある敵のチームや、大事なところで決めてくれないエースや、結果次第で名将とも腰抜けとも呼ばれる監督がいるのだろう。きっとこんな気持ちをこれから何度も味わう羽目になるのだろう。そう思うと絶望的な気分にもなるし、逆に勇気もわいてくるような気がする。どんなことでも、無理やりポジティブにとらえよう。それ以外にやり方なんてあるだろうか? 同じチームでプレーする楢崎と三浦アツを見て、僕は横浜フリューゲルスを思い出していた。勝っても最後の試合になる天皇杯の決勝は、出来過ぎたドラマのように終わったけど、それは悲しみ以外に様々なものを残した。終わってもまた始まるのだ、という強い意志を産み出した。だから、どうやら終わることなどなさそうな代表チームは、いくらでもポジティブな言い方をすることが出来るのだ。2002年に繋がるいい経験になった、なんて陳腐な決まり文句ではなく、もっと本質的な何かがあるはずだと思う。98年、このチームの立ち上げ当初の試合のアルゼンチン戦で、僕は凄い可能性を感じた。それは「オリンピックでベスト8」という結果で終わった。それは論理的であり、同時に不満うずまく結果であり、結局のところ「可能性」なんてものは可能性以上でも以下でもないことがよく分かる。僕らはまたしばらくすれば、日本の可能性について、くだらない妄想をしたり議論を戦わせたりするのだろう。それはそれでしかない。そして必ず「結果」を受け取る時がきて、悲しみに沈んだり(ひょっとしたら大喜びしたり)するのだろう。そんな残酷な結果に向けて、それでも全力でなんとか進もうとするサッカーという運動は、なんだかとてつもなく壮大な冗談のようで、同時にとても美しいもののような気がして、やっぱり僕は無関心になったりは出来なさそうだ。 先週、ぼんやりと朝の水泳を眺めていたら、バタバタとみっともない泳ぎ方で、しかもたった一人で100メートルの自由形の予選を泳ぐアフリカのどこかの国の選手がいた。ほとんど溺れそうになりながら、それでも彼はなんとか泳ぎきって、「オリンピックの精神」とやらに感動した観客がもの凄い拍手を送っていた。それはどう見ても滑稽な感じだったけど、同時に何か崇高な感じがするものだった。彼の泳ぎが、何か次に続いていくのかと思うと、それはやはり良いことのような気がした。みっともなくて、彼自身あんな拍手なんていらないと思うだろうけど、でもそれでもまた泳がずにはいられないだろう。そこに意味なんてありはしない。サッカーも同じだ。みっともなくても、負け続けても、勝って英雄になっても、等しく意味なんてありはしない。でも一歩ずつ階段を昇るように、全ては進んでいく。多分昇りきっても、全てが見渡せる場所なんてありはしないと分かっていても、でも階段を上ることをやめられない。それはそれで一つのやり方だ。 「ヨーロッパの主要国が力を入れてないオリンピックなど意味がない。日本がメダルをとっても意味がない。」と書いたクソライターは、きっと自分の人生に意味があると思っているのだろう。全力で何かに向かって闘ったことなんてないんだろう。最低限、人に対するときの作法を知らないのだろう。モノを書くときに必要な礼儀を知らないのだろう。僕はそんな風にサッカーについて話したくないなと思う。 随分ととりとめなく書いてしまったけど、とりあえずこのチームに一つの区切りはついた。また次のループへと足を踏み入れなければならない。またワクワクしたり失望したりするんだろう。僕自身がそのループに飽き飽きして、うんざりするまで、それは繰り返す。この感覚は何かに似ている。この日常に、過ぎ行く日々に、とても似ている。
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