FOOTBALL OR DIE
No.58
 "football or die" is dead
文/ビワコビッチ(2001.1.23)

 このタイトルは勿論冗談で、たまたまデ・ラ・ソウルの「DE LA SOUL is dead」を最近聴き直して、なんて素晴らしいんだ、と感動したから思い付きで付けただけである。この後もデ・ラ・ソウルは沢山のアルバムを発表していて今でも妙に元気である。なんだかとても気楽に聴けて、リラックス出来るアルバムで、それはもうタイトルからして人を喰ってるんだから当たり前なんだろう。肩の力を抜いた方がいいことも沢山ある。どっちかっつうとそっちの方が多いくらいかもしれない。このコラムも本来はもっとファニーな感じでリラックスムードがあってもいいのかもしれないのだけど、それは僕の文章が生来持っている硬さというか、なんというか本人とは違う一つの人格と言うか、とにかく生真面目なのが結構多いなあという印象だ。もうこんなの書いて3年(!)にもなるのだから、もう僕の人格が元来はかなりいい加減だということはバレていると思うのだが、時折、僕が熱くサッカーに情熱を燃やす純粋な青年だと思われていたらどうしよう、と心配になる(まあ別にどーってことないのだが)。

 だがしかし、勿論僕にも純粋だった頃がある訳で、打算や魂胆やさもしい根性や妬みや嫉みや、そんなモロモロから割と無縁だった時期もあったのだと思う。「子供は純粋だ」なんて言うつもりはない。結構小さい子供でもしっかり計算してるところは計算してたりするし、大人の為に騙された振りだってやろうと思えば出来る。だけどそんな子供なりの悪意や知恵も、大人になってからの諸々から比べるとやっぱり可愛いもんだ。だから相対的には子供は純粋だ、という論は間違ってないような気がするし、しつこいようだが僕だって純粋だったときはあった。

 そんなことを急に思ったのは、例のアレが原因だ。1985年の筑波万博であった「21世紀の自分へ年賀状を出そう」というヤツだ。当時田舎から家族揃って出かけ(初めての東京見物もついでにやって)、SF少年としての素地を完全に固める経験となった(ちょい大げさかも)筑波科学博覧会。あの会場で僕が21世紀の自分宛に送った年賀状が、今年の正月、実家に届いたのだ。そこには今と余り変わらぬ下手な字で「2001年の自分へ、1985年の自分より」というタイトルで実に恥ずかしい文章がしたためられていた。科学技術がどーとかエラそうにヌカしていやがる。そしてなんと葉書の右には超ヘタクソなサッカーボールの絵と「夢!!」という文字。あー書いてるだけで寒くなってくるが、これが小学6年生の時の僕だったのだ。どうやらこいつは、すげえサッカーが好きだったらしいよ、当時。

 いや、そんな風に誤魔化すのはやめとこう、いくら忘れっぽい僕でも小6の頃のことぐらい覚えてる。当時は確かに無茶苦茶サッカーを頑張ろうと思っていた。サッカー少年団なんてしゃれたもんは、田舎のどこを探してもなかったし、誰かに吹き込まれた訳でもない。だけどなんとなく当時の僕は、もう野球なんてダサイ、これからはサッカーだ、と一人思い込んでいた。なんと信じられないことに一人で公園に出かけては黙々と自主トレをやるなどという、今の自分に爪の垢を無添加で飲ましてやりたいような行為にまで及んでいた。家の中でも突然スクワットをやりだす(もっと太い足にしたかったから)など、とにかく少しオカシかった。なんであんなに熱心だったのだろう?と今になって思う。翼くんに夢中だったのは僕よりむしろ弟の方だったし、僕は当時いたソフトボールチームで落ちこぼれてた訳でもない。(サードで一番バッターだったんだから、割とカッコイイ方だろう)あえて言うなら、野球はみんな同じ格好をしていた。変な髪型や、口にハッパくわえてるような異常な選手は漫画の中にしかいなかった。サッカーは違った。長髪もヒゲも痩せも小太りもチビもノッポもいたし、ユニフォームだって青や赤やなんてもアリだった。世界のスポーツなんだということも、なんか妙に知的な興奮を誘ったのだと思う。まあきっと深い理由なんかない。中学に入ったら、サッカー部でバリバリやってやろうと思っていた。

 そんな訳で、ここで「いやーそれが今じゃセックス&ドラッグ、ロックンロールの薄汚れた人生だよ、ハッハッハ(かなり誇張アリ)」と逃げて終わればいいのかもしれないが、その後の転向について書かねばならない。少しトラウマになっているようなことなので、書きたくないのだけど、まあもののついでだし。21世紀だし。

 中学時代は最低だった。まずもってサッカー部に入れなかったからだ。余りにも希望人数が多すぎた。選抜試験をしようにも、ほとんどまともな経験者がいない田舎だし、教育的観点からも試験は行われなかった。その結果行われたのは他の人気のない運動部からの引き抜きだった。僕は担任がバレー部の顧問だったこと、背が高かったことの2点のみでバレー部に入るよう説得された。なんか暗い空き教室に連れていかれて、「お前は絶対レギュラー候補だから」とかなんとかいって説得された。それでほとんどの同級生はサッカー部志望を変えていった。(まあ部活なんてそんなもんかもしれないけど)でも当時、すでに妙な反骨精神のあった僕は、目に涙を溜めつつも拒否したのだった。そして家に帰って両親にそのことを得意げに報告すると・・・。待っていたのは担任教師の数倍はキツイ説教と恫喝だった。教師の父親、元教師の母親が二人して、いかに先生に逆らうのは良くないかを諭すのだ。彼らにとっては(二人とも超絶文科系)そもそも運動をそんなにやりたがる点で理解出来なかったらしく、ともかく教師の説得に頑固に首を縦に振らなかった子供が許せないらしかった。

 結局数時間後、僕は担任に電話をかけ、やっぱりバレー部に入りますと言った/言わされた。考えうる限り最悪の結果だった。それまでのトレーニングは全て無駄になったのだと思った。(そんな選択をさせた親に真剣に反抗するようになるのはもう少し月日がたってからだった。)その夜はどれくらい泣いたかわからない。とにかくウォンウォン泣いた。多分あれが今までの人生でマックス値。今でもなんか切なくなるくらいだ。あんなに純粋な気持ちを、ただ反抗することは良くないから、という理由で押さえ付けた両親のことは今でも許してないような気がする。まあそんな風にクソのような中学生活は幕を開け、僕はクソ担任の言った通りバレー部ではレギュラーになったが、そこにはあの小6の時の嵐のような熱意のカケラもなかった。楽しくなかったとは言わないが、別に思い出して胸が熱くなったりは全然しない。全部どうでも良かった。でもってサッカー部はなぜかヤンキーの溜まり場みたいになってて全然羨ましくなかったし、そもそもあんなにアホみたいに走って頭悪そうだなまったく、と思った/思うことにした。

 そして、最終的にこのトラウマと折り合いをつけるのに10年はかかったようだ。大学の終わり頃から、またこのアホみたいなゲームに(今度はプレイヤーとしてではなく)のめり込みだし、20代の僕はそんな熱に包まれたまま21世紀を迎えた。サッカーがダメならダメで、僕は変わった音楽やなんかを聴いて深く考え込むような人間になったし、それはそれでそう悪くない。16年前に起ったことに今更どうこう論評する気はない。そもそも、安易にトラウマなんて言葉を使うのもどうかしてる。サッカーをやる、ということに関して未だに身構えてしまうのは、あの夜の経験のせいだろうとは思うが、それがどうしたって言うんだ?たいした悲劇じゃないし、偉そうに人様に読ませるようなことでもない。それは分かってる、勿論分かってるし、ここまで書いておきながら実は少し後悔してるのだ・・・。

 久しぶりのコラムは、なんだか奇妙なモノになってしまった。タイトルともかなり関係のない内容になった。そもそもこの文章の一体どこにファニーな感じがあるんだろう!?あるとしたら、きっとそれは今これを書き終えようとしてる僕の表情だ。すっきりしたような、逆に混迷の度合を増したような、なんともどっちつかずな表情をしてるから・・。





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