FOOTBALL OR DIE
No.59
 心ときめくゲームを求めて
文/ビワコビッチ(2001.2.6)

 もう2月になってしまった。この時期は日本のシーズンオフで、僕のような衛星放送を見ることもなければ、海外のリーグに強烈な興味も(最近特に)ない人にとってはサッカーとは少し距離を置く時期である。冬の空気は(特に関東平野の気候はそうだ)とても澄んでいて、雲一つ無い青空もそう珍しいことではなく、休日にそんな天気に出くわすとなんだかとてもサッカー場に行くことに飢えている自分にふと気が付く。そんなこと言ってないで、さっさと自分でボールを持って近所の公園にでも出かければいいのかもしれないけど、僕は他にもいっぱいやりたいことがあって(マジかよ!いやでもそうなんだ、実際。)なかなか体も動かすことが出来ない。もう薄々感づいていることなんだけど、このまま体はどんどん弱くなり、肉はたるみ、少しの運動で息があがり、階段がツラくなり、背中のギターケースも重いぜなんて当たり前に言ったりして、気付いたらもう一年以上新しいスニーカーも買ってないなあ、なんてしみじみ思う思うような日々はもうすぐそこに在る。短く言えばあっという間にジジイだぜ、ということだ。人生は耐えきれないくらい長くて、そして短い。以上。

 以上、というのも寂しいから、もう少し続けてみる。もう一カ月もすればJリーグも開幕するし、また週末をサッカーの日程を頭に入れつつ考えなければいけない日々がやってくる。ニック・ホーンビィ「僕のプレミアライフ」じゃないけど、僕の友人たちには言っておきたい、なるべくならFC東京のホームゲームがある日に結婚式なんかやらないで欲しいと。まあ僕は分別のある大人だから大事な友達の結婚式だったら、例えその日に優勝が決まるかもしれなくても試合を我慢するんじゃないかな、と思う。まあ、そればっかりはそんな状況になってみなければ分からないのだけど。

 そう、僕は分別のある大人だ。それは全然悪いことじゃないんだけど、分別のない子供が出てくる映画を見て、そんな時代のことを考えた。まあ僕は小さい頃から割と分別があったから、彼らみたいに行動出来なかったと思うのだけど。

 ザ・カップ〜夢のアンテナ〜という映画をみた。ブータンの映画。舞台はインドに亡命中のチベットのラマ僧たちの僧院だ。そこで起る1998年のドラマ。そう、フランスワールドカップが見たくてたまらなくて、でも修業中の身で、テレビを見ることが出来ない僧院の中で生きる、ガキどもの映画だ。夜中に僧院を抜け出して、フランスやイタリアやブラジルの試合を見る。翌日興奮してその試合を語る。サッカーを知らない新入りに「これがロナウドだ、こんな頭してるけど坊さんじゃない。」とか偉そうに語る。まあ怖い先生に怒られちゃったりはするんだけど、ホントの悪人が出てこない映画で、ガキとサッカーを見せられてオレが泣かない訳がないだろう、ということでやはりラスト近くはじわっときた。いい映画だった。ガキどもは、みんな演技の素人だったけど、ガキとしては本職だから、とても上手にサッカーに目を輝かせ、わいわい騒いで、うるさくて、そしてとても優しかった。

 ガキたちが感じていたときめき。コッパズカシイ言葉だが他の言葉もないからそう書くしかないときめき。それを。分別を身に付けることで少しずつ麻痺させていくことが歳をとることだというのは、おそらく迷信のようなもので、大人になってもそんなものにつき動かされて行動している人たちはいっぱいいる。フットボール狂という分類は分かりやすいから、まあそんな紋切り型で語られることは多いだろうけど、別に僕らのような人種だけが子供のときめきを忘れてないんだ、なんて思いはしない。それどころかサッカーに夢中なんだと言いながら、それに付随するなんやかんや(知識の量や、どれだけこの道楽に金をかけているかとか、レアなグッズ収集とか、そんな競争ばっかりに心血を注いでいる人)にはうんざりするし、それは心のときめきじゃなくてパラノイアって言うんじゃないのか?とも思う。

 大事なのはやっぱり、試合が始まる前にゾクゾクするような感じであり、得点のときの高揚感であり、背筋の凍るような負けることへの恐怖だ。プレステでサッカーゲームをいくらやってもその感覚はやってこない。疑似体験はエロビデオにも劣る。この映画のガキどもが無茶を承知で僧院を真夜中に抜け出して、近所の民家にワールドカップを見に行くように、そんな風に僕は家を出て電車に乗ってスタジアムに向かいたい。つい小走りになってしまうような感じで。

 日本と韓国で開催されるワールドカップのチケットがもうすぐ発売されるけど、そこにはいろんなドロドロや不愉快でゲロゲロないろんな付随物がこびりついてしまっているけど、多分そんな不純物の全てを取り除いたあとの「ワールドカップのチケット」はきっとあの僧院のアンテナと同じなんだと思う。近所のインド人から借りた、ボロボロのアンテナ。どの方向に向ければ映るのかも分からないアンテナ。それがうまく電波を受け止めたとき、そこにはジダンやプティやロナウドが映っていた。

 でもどうやらワールドカップのチケットはそんな風には僕らに届きそうにない。いろんな所にバラまかれ、スポンサーの商品を買わせる為のエサに使われ、いろんな金の流れに乗り、どんどんそれは汚らしくなる。日本戦のチケットなんかはうんざりするような投機の対象だ。それは視聴率80%間違いなしのお化けソフトへの招待状かもしれないし、将来のお宝鑑定に出して高額の鑑定をしてもらえる紙切れになるかもしれない。見せびらかし、人より優位に立ち(見るだけなのに!)サポーターの日本代表だ、なんて言葉もきっと生まれるだろうし、テレビや雑誌はそのことばかりうるさく喚きまくるだろう。頼むから静かにしてくれ。僕は今から来年のことをそんな風に予想して、少し憂鬱になる。夢のアンテナとは似ても似つかない、いびつな紙切れ。コリア-ジャパン。

 いったいどれだけの人が、そのときめきに身を委ねることが出来るのだろう。チケットを手に入れることが出来るかどうか、という意味ではなく、ざわざわと騒ぐ自分の心に、ガキの衝動にどのくらい近くいられるのだろう?ということだ。余計なものばかりが目立つんだ、この日本と韓国のお祭りには。どれだけ金が動いたって、どれだけアホヅラさげたメディアが騒いだって、ドキドキしなければ、それは僕にとって意味のない一カ月になる。

 巨大化したワールドカップ、それはここ数大会同じ状況なのかもしれないけれど、きっとこの国はより稚拙な形でその風に煽られるだろう。でも大人になるっていうのは、そういうことを受け止めて、でもなんとかしようとすることなんだと思う。変なニヒリズムには流されないようにしよう。心ときめくゲームのために。





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