FOOTBALL OR DIE
No.68
 西暦2002年のフットボール
文/ビワコビッチ(2002.1.8)

 最後にfootball or dieを書いたのが去年の10月だから、もう3ヶ月近く書いてなかったことになる。もう最近こんなもん。そんなこと誰も思っていないと思うけど、書く数を絞ってその分、テキストの質を上げようとかそんな思いは全くない。忙しいのは一因だけど、きっとそれだけじゃない。じゃあもう嫌になったのかと言われたら、そうでもないんだと思う。サッカー場には律儀に行き続けて、その内の何回かは書いておきたいと感じる何かが確かにあった。でもその瞬間の熱がどこかに行ってしまうと、実際に書かれることなく、その「何か」も忘れてしまった。

 それはFC東京と磐田の試合だったかもしれないし、最終節の東京ダービーだったかもしれない。どっちももう「今さら」な感じがする。その「何か」を思い出そうとする程僕は律儀ではないらしい。でもそもそも律儀に書き残しておく程のものかという疑問もある。その場で、その瞬間、感じることができた何かを思い出したいと思うこと、書いておきたいと思うこと。それは写真と同じようなもので、あくまで貧乏性な僕の保険に過ぎないのだ。どうせ完全に思い出すことなんか出来ないのだから。

 2002年のスタートは天皇杯決勝から。よく晴れた元旦の国立競技場は気持ちよかった。朝方まで酒を飲んで、とてもよく晴れた中を駅まで歩き、チケットを忘れて家まで走って戻り、それでも連れ達はみな遅刻だった。2002年になっても何も変わらない。98年、99年の元旦も僕は国立競技場にいた。どちらもとても天気が良くて、心が洗われたような気がした。(勿論気がしただけで、今も僕の心は真っ黒だと思うが。)予定より遅れて、選手紹介の頃スタジアムに着くとホーム側はオレンジに染まっていた。アウェイ側のメインよりはにわか助太刀っぽい人が多数。僕も同じ気持ちだからよく分かる。このチームには、例えよそを応援していようと、そんなことに関係なく楽しませてくれる何かあるような(特に2000年の前期を見ていれば)、あとそんな人が来ても誰にも怒られないような、そんな雰囲気があるような気がするから。またあの美しくて早いパスサッカーが見られるんだろうか?それとも今年東京相手に披露してしまった驚異的に脆いディフェンスが再現されるんだろうか?そう思いながら試合を見た。

 そう言えば94-95年の天皇杯。セレッソ大阪がJリーグ昇格を決めたばかりの大会で決勝まで進出した時、その時僕はこの小さくてよく走る選手のことを知ったような気がする。その時はまさか代表になるとは思わなかったし、こんなに有名になるとは思わなかった。森島寛晃。72年生まれで同い年というだけでなく、何か親近感を抱いてしまう選手。関西弁ネイティブじゃないのに、なぜか流暢な関西弁ではなす男。彼はこの日も走りまわっていた。そして最後は、森島がドリブルしたところをかっさらわれ、そのまま上がったセンタリングでVゴール負け。

 期待していたパスサッカーは前半15分までにいくつかの決定機を作っただけで、終わってしまった。清水の割と洗練された守備のやり方にかかると、魔法がとけたようにボールは行き場を失って、かと言って清水の攻撃が鋭かったかというと、それほどのもんでもなくて、気付いたらしっかり2-0まで持っていかれて、ああもうこのまま終わりだな、と思っていたら終わらなかった。知らない間に岡山、大久保、真中が入っていて、「岡山大作戦」と呼びたいようなロングボールからの展開の連続。必死でジャンプし続けたかいあって、見事岡山が落としたボールが森島の足下におさまりまず1点。2点目はよく覚えてないけど似たような展開からPKを奪ってのもの。とにかくモードチェンジしてからの怒濤の攻撃には、違った意味で面白いと感じたし、本当にそれで追い付いたんだから拍手するしかない。最後は負けだったけど、ユンのPKの時には僕も飛び上がって喜んだし、最後は泣いてる岡山にも拍手した。セレッソ大阪ファンの皆様、軽薄で流されやすい僕をお許し下さい。

 やれやれ負けちゃったけど面白かったな、と家路に着く。試合が終わると急に冷え込んだような気がした。それに正月の東京はやっぱりどこか抜け殻のように静かで、変な感じがした。いつもは「シーズンの終わり」を強く感じさせる天皇杯決勝だけど、今日はなぜか「2002年の始まり」を強烈に感じさせる試合だった。セレッソは来期J2で戦うチームだという事情のせいもあるのかもしれない。それともやはりあの場に集まった5万人近くもやはり、今年はワールドカップがこの国で開催される年なんだ、ということをどこかで強く意識していて、そのせいで「始まり」感が強かったのかもしれない。

 走りまくる森島の姿は、微塵も悲愴感を感じさせない。彼の人柄とプレイスタイルを重ね合わせて、実直で勤勉で責任感があるからあの運動量なんだと思った時期もあったが、どうも違うような気がした。そんな「理由」があって森島はボールを追い続けるのだろうか?狂ったようにスペースに向かってダッシュするのだろうか?違う。きっと彼の「理由」はそれが彼のスタイルだから、という以外にないだろう。これが彼のやり方、これが彼の考えるサッカー。ランナーズ・ハイになったことがないから分からないが、きっとそれに近い感覚。見ている僕らもその雰囲気に誘われる。どこまでも走り続けたら、勝利に近寄れるんじゃないかという気になる。

 「理由」が明確に見えすぎるプレイはどこか疎まれる。勿論僕はサッカーに合理性や論理的整合性だって求めているから、頭の悪いプレイは好きじゃない。だけど、「意図が分かり過ぎる」のもきっと面白くないのだ(なんと勝手なものだろう)。中田よりも小野が好まれるのは、森島が好まれるのは、きっとそんなあたりに原因がある。でもきっと中田が不要とは誰も思っていない。難しいのだ、そのあたりのバランスは。確実なのは(特に攻撃の時)、僕らが感じるスピード感は、走る、パスを出すプレイヤーのそれとシンクロする。そのスピードがとても早くて、意外性があって、でも理想的なコース取りで、いつもと違う風景が見えるような気がした時、それはプレイヤーも観客も、ホントに気持ちのいい瞬間なのだ。恍惚とさえするスピード、テクニック、そしてアイデア。本能的に僕らは、美しく裏切られることを期待しているのかもしれない。

 2002年の6月まで、僕らは喧噪の中を生きなければならない。テレビや雑誌が騒ぐ。バカが大挙して僕が大事にしていたところに上がり込んでくるような気さえする。皆がワールドカップを「語り」まくる。「根拠」や「理由」を大慌てで探している。日本代表に期待すること/日本はまだまだ弱い、という認識の間でどっちかに属せと煽ったりする。でもきっとみんな気付くのではないかと思うのだ。ワールドカップに、サッカーに「理由」や「意味」などないことを。この世界で一番大きな祭りに、何かの目的意識や論理的整合性を求めようとしても無駄だ。だってこれは祭りなんだから。楽しいかどうかはやってみなきゃ分からないよ、きっと。何も考えずに、思いっきり走ってみること、そしてどんな気がする?と自分に問いかける。汗をかきながら、「そんなのわかんねーよ」と笑顔で言い放てたら、祭りに参加していいような気がする。いくら考えたって「答え」がないところに答えはないんだ。

 (西暦2002年が全てのフットボールに関わる人にとって、よい1年でありますように。)






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