FOOTBALL OR DIE
No.69
 西暦2002年のフットボール その2
文/ビワコビッチ(2002.1.8)

 家に帰ったらちょうどニュースステーションが始まったところだった。久米宏がチュニジアに行っていた。天気が良い冬のチュニスのオープンカフェから衛星生中継。アンリミシェルへのインタビューもあった。チュニジアのリーグ戦観戦風景もあった。のんびりした中継。この人サッカー好きだったっけ?と思いながら見たんだけど、どうやらホントに(まあ半分遊びみたいな感じだし)楽しそうで、ほほえましい感じだった。サッカーカフェみたいなところで、自慢げに日本−イタリアの試合(柳沢のゴール)を見せたら、ほぼ全員が無表情に「この試合見たよ」と言う。いい感じだ。

 そして長い中継の締め。彼はずっとサッカーとは何なんだ?と考えていたんだと言う。そしてここへ来て分かったという。曰く「世界には経済的に、軍事的に色んな国があって、不平等なことが多い」「ワールドカップで勝つこととは、毎日毎日の暮らし、どっちの国が幸せかの競争で勝つということ」「勝った方の国は我々の人生の方がハッピーなんだ!と言うことが出来る」。

 概ねOKである。まさか彼の軽薄な物言いに頷く自分がいるとは思わなかったけど、そう、そういうことなんだよ、今頃分かったのかい?と偉そうにテレビを見ながら思った。僕は昔、このコラムの中で一度だけナショナリズムのことを書こうと試みたことがある。結局その時は根気がなくて中途半端なことしか書けなかったが、そのころからずっとサッカーのことを考えてきて、今の僕がサッカーとナショナリズムに関して言えることは一つだ。それは「国のためにサッカーがあるのではなくて、サッカーのために国(という制度)がある」ということだ。国という制度があるおかげでワールドカップがある。イギリスのように国連加盟やオリンピックの単位と違う形でサッカー協会があのならばそれでもいい。サッカーはナショナリズムを喚起するから嫌いだ、という(ワールドカップやオリンピックしか知らない)人がいる。そういう人には(その人が話すに値する人だと思ったら、だけど)僕は言う。逆にサッカーこそが国という制度を解体する最大の装置なんだ、と。

 サッカーに取り付かれ、数限り無い敗戦と勝利のループを体験して僕らは知る。チュニジアまで行かなくても分かることだ。そこには真の(つまりそれは唾棄すべきということ)ナショナリズムは成立し得ない。他者(他国を、他のクラブ)を本当の意味で屈服させ、従属させ、自らの優位性を完璧に証明することは出来ない。なぜならサッカーはゲームで、次の試合が常に待っているからだ。勝者は常に次の敗北におびえ、敗者は次の勝利を期待し続ける権利がある。チームがなくならない限り、その反復は永遠に続くのだ。だから本当に誰かを踏み付けたい連中は、フーリガニズムに走るしか策がない。そうでもして叩きのめさない限り、どんなみじめな敗者も一週間も立てばいつか勝ってやるさ、と強がるからだ。

 だから、久米氏の言ったことは概ね正しい。僕らはサッカーの勝利に、人生の幸せを重ねる。なんてハッピーなんだと思う。負け試合の後に地面を蹴り、ブツブツ文句を言いながら家路につき、こんな人生は本当に最悪だと思う。金払ってこんな辛い思いをして、俺はなんて間抜けなんだと空しい思いをする。

 そう、だからきっと人生には意味があるようには、サッカーにも意味はあるのかもしれない。昨日書いたことと矛盾するようだけど少し違うのだ。幸せになったり、不幸せになったりしたければ、もし日々の生活にそんなはっきりとした指標を見い出すことに疲れたりしたら、サッカーに近寄って行けば良い。運命を共にするチームが見つからないなら、ナショナルチームが手っ取り早い。ワールドカップは世界一クリアな音質の、サッカーという音楽の試聴機だと思えば良い。そして段々分かってくるのだ。あらゆるところで音楽が鳴っていることに。僕らはそれを聴く。小さな音でかかり続ける音楽、爆音で流れる音楽、いつもそれは近くにある。今年はきっとアンプのボリュームを目一杯あげる年になるのだろう。いいことじゃないか、と思っている。






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