ザ・ワールド・イズ・マイン
もう先週のことになるのだが、新井秀樹「ザ・ワールド・イズ・マイン」全5巻を読み終わった。
辞書のように分厚いこの5冊は、その分厚さ以上に衝撃的な体験をもたらしてくれた。まさに「デビルマン」級の金字塔。この漫画について書くことで、2006年のcoyote noteの締めとしよう・・・なんて大袈裟なことを考えていたのだけど、なんとなくまとまった時間もないまま30日になってしまった。
爆弾魔トシと殺人鬼モンのなんの目的もない大量殺人ツアー。同じく脈絡もへったくれもない巨大モンスター「ヒグマドン」の破壊と殺戮のパレード。この二つの物語が、互いに争うように/寄り添うように展開し、巨大な物語へと変化していく。
作者はこれを倫理や道徳についての物語だと言い、神についての物語でもあると言う。確かにそうだ。そして僕が更に思うのは、これは「物語」についての物語であるということだ。一切の共感や同情を排除した、冷徹で正確な人物描写は純文学的であり、現地取材によって緻密に構成された青森や大館の都市の破壊はハリウッド映画的であり、残酷描写や多くの反倫理の連続劇は日本や韓国の映画的な気がする。そういった数多くの多彩な「語り口」は、その多様さゆえに我々をこの異様な物語の中に引き込みはするが、本当の意味での技巧はそこにあるのではない。
「ザ・ワールド・イズ・マイン」の中には一見陳腐に見える物語がそこら中に転がっている。職業倫理を貫き通す警察官、金髪美女を抱く総理大臣、ダンサーになりたい女子高生、成り上がりたい地方局の女性レポーター、ロックスター、殺人鬼の母、唾液の分泌量が異常なSAT隊長・・・・陳腐な物語のループが僕らの日常にほかならないのであれば、そのループを強制終了してくれるのは圧倒的な強度の別の物語しかない。すなわちそれはとてつもないハイ(快楽や支配や創造)もしくはロー(暴力や破壊や死)であり、何千年も前から人類が「物語」を求めている理由である。
物語には道徳は不要であり、必要なのは「強さ」のみである。荒唐無稽であろうが、バカバカしかろうが、「強さ」のある物語は実に古典的な方法で生み出すことが出来る。つまりそれはノイズの積み重ね。このノイズのような、幾重にも重なった怒号、悲鳴、嘆き、笑いの音楽こそが、我々が求め続けてやまない「物語」を生み出す土壌になる。
「ザ・ワールド・イズ・マイン」はそういった構造に正面からの一点突破で挑み、「物語」というモンスターを更に得体の知れない不気味なものに育て上げた作品になっている。僕はただ、その圧倒的な流れの中に巻き込まれるしか無い。そして黙ってその悦びに震えるのだ。
読後には、町山智浩のアメリカ映画特電を聴くと面白い。この漫画が密かに(もしくはおおっぴらに)影響を受けている映画や文学について語られている。そんな原典とか全然知らなくても十分面白いと思うが、ついつい19歳の地図とか言われると盛り上がってしまうのが我ながら単純だと思う。
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うわー、トシモン!懐かしいです。連載で読んでました。絵の好みが別れる作家さんですよねー。私はイケます。いつも。アル・パチーノ主演「スカー・フェイス」のラストの"world is yours"が頭の中で煌めいていました。
スカー・フェイス、2001年宇宙の旅、時計仕掛けのオレンジ、ナチュラルボーンキラーズ、中上健次、梶井基次郎、その他諸々・・・こんな凄い漫画があったのね。。ということを知った2006年の年末でした。