「千」と「千尋」と間で
首がまた痛くなった。今日は一日家で静養。会社で不自然な姿勢で寝たからだろうか?これからも歳をとるとともに身体のあちこちがボロくなってくるのだろう。部品の交換やメンテナンスをしたいが、そんな風にこの身体は出来ていない。ああまたとりとめもなく昨日の話。(一部誤解を招いたみたいなので、フォローみたいな感じ?フォローになってないかもしれないけど。)
どうしては人は機械に例えられるのが嫌いなのだろうか?
「産む機械」は論外の低レベル発言として、「会社の歯車」とか、「消耗品」「持ち駒」「捨て駒」といった表現も大抵の場合は嫌悪の感情でもって迎えられる。つまりそれは、「機械」という言葉が「特定の機能を果たす為に存在するもの。正確にその機能を果たすモノとして期待されている。(そしてその機能を果たせない機械には、存在価値はない。)」からだろう。他者から何らかの機能を期待されることはやぶさかではないが、他者から何らかの機能を果たすよう強制されるのは嫌だからだ。それはその機能を果たせないこと=存在価値の否定となってしまい、そうやって他者から不要であるという烙印を押されたとしても生きていかなければいけない僕らにとっては、到底受け入れ難い考え方であるからだ。
昨日の夜、テレビで「千と千尋の神隠し」をやっていた。何度見ても素晴らしい。その中で湯婆婆に「ここで働かせてください!」としつこく食い下がる千尋が、雇用を承諾してもらうことと引き換えに名前を奪われる(「千」になる)というシーンを見て、ああこれは人が「役目」を与えられること/引き受けることの悦びと悲劇性を描いているのかな・・という気がした。
人は自らの機械的側面を、十分に認めている。ある程度の機能を果たさなければ世界から認めて貰えなくなることを自覚している。かつ、自分が交換可能な部品や、自分以外の人でもある程度はリプレース可能なモノであるということも、気づいていないふりをするかもしれないがよくわかっている。(だから人は悲しい気分になったりする)ただ、そんな「機能」を提供する存在としての人間には、「感情」というソフトウェアが標準で添付されていて、「千と千尋」に出てくる釜爺に言わせればそれは「愛じゃよ、愛」ということになるのかもしれない。
そう言えばこんな歌もあった。
あの娘に言わせりゃ オイラはバイブレーター
欲しい時そばで こいつが立てばオーライ
よそもの呼ばわり されちまったよ
人の思いなど 僕にはわからねーよTheピーズ/バイブレーター
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