book: 2006年12月アーカイブ

もう先週のことになるのだが、新井秀樹「ザ・ワールド・イズ・マイン」全5巻を読み終わった。

辞書のように分厚いこの5冊は、その分厚さ以上に衝撃的な体験をもたらしてくれた。まさに「デビルマン」級の金字塔。この漫画について書くことで、2006年のcoyote noteの締めとしよう・・・なんて大袈裟なことを考えていたのだけど、なんとなくまとまった時間もないまま30日になってしまった。

爆弾魔トシと殺人鬼モンのなんの目的もない大量殺人ツアー。同じく脈絡もへったくれもない巨大モンスター「ヒグマドン」の破壊と殺戮のパレード。この二つの物語が、互いに争うように/寄り添うように展開し、巨大な物語へと変化していく。

作者はこれを倫理や道徳についての物語だと言い、神についての物語でもあると言う。確かにそうだ。そして僕が更に思うのは、これは「物語」についての物語であるということだ。一切の共感や同情を排除した、冷徹で正確な人物描写は純文学的であり、現地取材によって緻密に構成された青森や大館の都市の破壊はハリウッド映画的であり、残酷描写や多くの反倫理の連続劇は日本や韓国の映画的な気がする。そういった数多くの多彩な「語り口」は、その多様さゆえに我々をこの異様な物語の中に引き込みはするが、本当の意味での技巧はそこにあるのではない。

「ザ・ワールド・イズ・マイン」の中には一見陳腐に見える物語がそこら中に転がっている。職業倫理を貫き通す警察官、金髪美女を抱く総理大臣、ダンサーになりたい女子高生、成り上がりたい地方局の女性レポーター、ロックスター、殺人鬼の母、唾液の分泌量が異常なSAT隊長・・・・陳腐な物語のループが僕らの日常にほかならないのであれば、そのループを強制終了してくれるのは圧倒的な強度の別の物語しかない。すなわちそれはとてつもないハイ(快楽や支配や創造)もしくはロー(暴力や破壊や死)であり、何千年も前から人類が「物語」を求めている理由である。

物語には道徳は不要であり、必要なのは「強さ」のみである。荒唐無稽であろうが、バカバカしかろうが、「強さ」のある物語は実に古典的な方法で生み出すことが出来る。つまりそれはノイズの積み重ね。このノイズのような、幾重にも重なった怒号、悲鳴、嘆き、笑いの音楽こそが、我々が求め続けてやまない「物語」を生み出す土壌になる。

「ザ・ワールド・イズ・マイン」はそういった構造に正面からの一点突破で挑み、「物語」というモンスターを更に得体の知れない不気味なものに育て上げた作品になっている。僕はただ、その圧倒的な流れの中に巻き込まれるしか無い。そして黙ってその悦びに震えるのだ。

真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (1)巻
真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (2)巻
真説 ザ・ワールド・イズ・マイン 3巻
真説 ザ・ワールド・イズ・マイン 4巻
真説 ザ・ワールド・イズ・マイン5巻

読後には、町山智浩のアメリカ映画特電を聴くと面白い。この漫画が密かに(もしくはおおっぴらに)影響を受けている映画や文学について語られている。そんな原典とか全然知らなくても十分面白いと思うが、ついつい19歳の地図とか言われると盛り上がってしまうのが我ながら単純だと思う。

墨攻

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来年公開されるアンディ・ラウが主演の映画「墨攻」。原作は日本の漫画。更にその漫画の原作は酒見賢一の同名の小説とのことで、これって正確には小説の方を「原作」と呼ぶべきじゃないのか?と思ったが、先に翻訳されて、映画にしてみたい!と思われたのが漫画だったのだろう。

漫画の方。
墨攻 (1)

小説。
墨攻

戦国時代の中国、特異な非攻の哲学を説き、まさに侵略されんとする国々を救援、その城を難攻不落と化す謎の墨子教団。その教団の俊英、革離が小国・梁の防衛に派遣された。迫り来る敵・趙の軍勢は2万。梁の手勢は数千しかなく、城主は色欲に耽り、守備は杜撰であった。果たして革離はたった一人で城を守り通せるのか—史実を踏まえながら奔放な想像力で描く中島敦記念賞受賞作。

戦争を最大の悪事と見なす思想集団でありながら、その構成員は卓越した戦争職人(主に城塞都市を守ることに特化した戦術の)であったというのが面白い。その「技術」は、人心掌握術、組織論にまで及び、戦争という局面(つまりそれは全てのベクトルが「負けない」という方向を目指し、最大限の効率化を目指す極限状態)において)、何が必要か/何が必要でないかを徹底的・合理的に考えたうえでのメソッドとして提示される。

「戦争を最大の悪事である」と定義し、「非攻」を掲げた時点では、この思想は完璧な論理的整合性を持っていると思われる。だがこの思想はその継続の過程において、その思想的論拠を「防御」の技術論の実践的発展に求めた時点で、いづれは破綻する思想へと姿を変えたと言えるだろう。どうやったって「守る」とは「攻める」ことと不可分であるからだ。その意味で「墨守」ではなく「墨攻」というタイトルは実に奥行きのあるものだと思う。

もしも非戦を掲げる憲法を維持しながら激烈な専守防衛の軍事国家となり、更に国防の為の軍事コンサルタントとして他国に人を派遣したりする国があったとしたら・・・まさに現代版の墨家である。なんか村上龍の小説みたいだけど。