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もともと、まったく見るつもりのなかった映画。Zガンダムの映画を張り切って見に行ったら最低な出来だったこともあり、もはやこのテのものはダメだろうという先入観があった。

で、いざ公開されてみると、思いのほか評判がいい。絶賛の声も大きい。じゃあと手のひらを返して見に行ったのである。しかも朝の9:00の回。渋谷のアミューズCQNは朝から満員。恐ろしいものを感じる。窓口でゼーレのピンバッチが貰えた。

映画の感想としては、多くのブログで書かれているようなことに概ね同意である。フィルムは新旧のツギハギではなくすべて新しく、細部にまで描きこまれた街並み、兵器、風景と、ナマナマしく動く使徒やエヴァはスクリーンでの鑑賞に十分耐えうる。そして微妙に変更された部分(僕は全部を覚えているわけではないのだけれど)が、次なる物語への興味をかき立て、まさにrebuildの名にふさわしい。もうさっさと次を見せて欲しいくらいである。

以下はエヴァンゲリオン/ヱヴァンゲリヲン という現象について。

エヴァンゲリオンを10年ぶりに見て思ったのは、そういえばこれは「戦いたくない人を戦わせる物語」であり、それはつまり「生きる理由がない人の為の物語」だったな、ということだ。(その意味では僕はこの「序」のエピソードあたりがこの作品の本質であり、意味ありげなゼーレだの人類補完計画だなんだというのは、どうでもいい背景に過ぎないと思っている)

ガンダムが提示した「リアルな戦争」=しょうがないから生き延びるためにがんばろう、そしてよりよい世界を築く為に/よりよい人生を生きるためにがんばろうという世界観は、エヴァンゲリオンによってより厄介な問題として再構築されてしまった。ガンダムには階級闘争や理念闘争という、もっともらしい「理由」によって登場人物たちは動くが、エヴァンゲリオンに登場する「使徒」が人類を攻撃してくる理由はまったく明らかにされないまま、ただ圧倒的な破壊力との戦いという形で物語が進行する。生まれた時から、特に頑張らなくても生きていけるし、理念のぶつかり合いなどどうやって起きるのか見当もつかない世代にとっては、あまりにも意味のない「頑張って」であり「逃げちゃダメ」を投げつけられる世界・・・碇シンジの世界こそが、それっぽい戦争SFよりもよほど現実的だったのである。(そしてそれは最終的に、テメエでなんとかしろよ、と放り出される。)そこでは、ひたすらに逃げないことが求められて、よくわからないままに数種類の類型的な美少女/美女の為にロボにのって必死に戦うことを続けなければならない。「序」のクライマックスであるヤシマ作戦というのは、結局はその役割をシンジ君が腹をくくって受け入れる、という部分がひたすらに感動的なのである。

なんで頑張らないといけないのか?という問いに答えてくれるのは(理念なき世界においては)欲望、エロス、そして宗教的なものくらいしかない。だからエヴァには萌えと世界の謎があちこちに仕掛けてある。

結局のところ、「さっさと次を見せて欲しい」というのは賞賛の言葉ではなく、僕にとっては極めて素直な感情の発露なのである。こんなものばっかり見ていても、いっこうに何も始まらないのではないか。謎を解いて欲しいと「物語」にすがりついても、もやは僕らは人から与えられる答えには満足しないだろう。「エヴァ」にくるまれて、振り回されても、本当に面白いことには辿りつけないのではないか。それは自分で探した方がいいのではないか。

もうわかった。「きもちわるい」という最強の一言で終わった10年前の映画版から、結局は同じなのだ。もっと違うバリエーションでの「きもちわるい」を吐きつけられたくてたまらないドMたちが、もっとはっきりと「きもちわるい」と言ってくれ、と要求しながらエヴァに迫っているのである。その光景は限りなく「きもちわるい」し、自分もその中の一人なのだ。なんとまあ、やはり人類は補完されたがっているのかもしれない。そしてそれが幸せなことなのかどうかは、誰にもわからない。

ロング・グッドバイシネマヴェーラ渋谷で「ユナイテッド・アーティスツの栄光」特集。ロバート・アルトマンの「ロング・グッドバイ」とウディ・アレン「マンハッタン」を見る。

<ロング・グッドバイ>
アルトマンのロング・グッドバイは実に洒落たアレンジを加えつつ、原作の空気はそのままの感じで再現され、おまけに結末はすっかり変更されている。優れた原作を持つ映画は、これくらいひねった方がいいのかもしれない。ヘタに原作との比較で評されたりしないし、映画の長さにストーリーの密度も合わせることが出来るし。

マーロウは猫を飼っていて、お隣がヒッピー女子の巣窟で、物真似の得意な守衛がいて、テリー・レノックスは・・・・・・のだ。これはこれで、一つの物語。

<マンハッタン>
美しく聡明な女子高生とつきあってる冴えない40男という設定だけでもファンタジーなのに、更にそこにダイアン・キートン扮するインテリ編集者とも恋愛沙汰になるのだから、どんだけウディ・アレンは都合のいい妄想を繰り広げることが得意やねんという感じであるが、よく考えれば多くの男や女は都合のいい妄想が大好きなわけで、誰かがそれを映画にする仕事を引き受けなければならないのかもしれない。それゆえに、映画監督とはやはり変態的な人物がなるべきなのだ。マンハッタン

松江哲明「童貞。をプロデュース」を見に行く。

松江哲明監督は、豊田道倫「グッバイメロディー」のビデオを見て、その余りにすばらしさに驚いたのが最初で、それ以来いろんな作品を追っかけているような気がする。ついに大きな劇場で公開となって、しかもシネマロサでは(祝)大ヒットということで、1週間公開が延長になったらしい。今日もほぼ満員でした。

見ての感想。実に面白かった。みなさまお誘い合わせの上是非どうぞ・・という映画である。

土曜日、公開初日に見た映画。ブラック・スネーク・モーン

クリスティーナ・リッチがセックス依存症の女で、サミュエル・L・ジャクソンが元ブルースマンで、今は農業やってるオッサン。家の前で捨てられていた半裸のクリスティーナ・リッチを、オッサンが拾ってきて鎖で繋いじゃって、監禁し更生させる(?)というお話です。(こう書いていているだけで、なんと異常な設定なのだろうとくらくらしてしまう)

クリスティーナ・リッチは基本的にパンツと破れた限りなく面積の小さいTシャツ姿で、ある意味あれは裸の大将とか長州力に通じるものがある「コスチューム」だと思った。

冒頭でサン・ハウスの映像が出てきたりするんだけど、どうやらこの映画はホンキで「ブルース」の映画であろうとしているようで、サミュエル・L・ジャクソンのギターと歌はかなり気合いが入っている。

セックス依存症/不安症という、リッチ演じる女性とその恋人は圧倒的な「病」に冒されているが、それはブルースの力で、そして鎖の力で癒されるだろう・・・ということを、こんな奇妙な物語にして表現するというのは、まったくどうかしていると思うが、この映画はなぜか成功しているような気がする。

ブルースは鎖を断ち切るのではない。鎖に繋がれながらもなんとかやっていけることを諭すのだ。そしてその鎖は我々を拘束し抑圧するが、同時に安全地帯につなぎ止めてくれる。やってられないと思うか、仕方がないさと思うか、それとも今日もギターを弾くか、それくらいしかこの世界には選択肢はない。

日曜日に見た映画。フリーダム・ライターズ。もう明日で上映は終わってしまうみたいだけど。

僕は自分が教師の息子なせいか、いわゆる「教育」には大いなる嫌悪と愛の入り交じった込み入った感情を持っている。自分が最も関わりたくないのが「教育」だと昔は思っていたし、でもなぜかドラマの「金八先生」は、一種のファンタジーとして大好きだったりしたのだが、この映画は実話をもとにしたものだから始末が悪い。「金八」メソッドなんてテレビ用のファンタジーであり無効だとばっかり思っていたのに、この「フリーダム・ライターズ」メソッドは、桜中学よりも何十倍も荒廃した(なにしろみんなギャング予備軍だったり銃を持っていたり足に発信器つけてたりするんだもの)ウィルソン校で、本当に生徒たちを立派に育ててしまったというのだ。そんな「教育」が現代に成立するなんて。

この熱血先生のクラスに使われた方法論の一つである「日記」というのは、学校の現場では割とありきたりなツールだと思うんだけど、おそらくはそれが他の多くのクラスと違ったのは、このクラスの生徒たちは、身近な暴力、死、差別、人種対立、家庭崩壊・・・その他諸々のありとあらゆる「毒」を接種しすぎていたからだろうと思う。

つまり日記はありきたりなツールではなく、授業で使われる「アンネの日記」と同じく、「自分」の存在証明であり、解毒作用のあるツールとして機能したのだ。そしてブログもそうだが、「他者に読んでもらいたい」と思って書かれる日記には、ある種の自分プレゼン機能のようなものがあって、自分を外に向かって開くように作用する。つらすぎる現実は、書くことで冷静に対象化され、自分が本当に求めているもの(=ギャングになって死にたいわけじゃない)に気付かせる。

映画としては、これが「実話」じゃなかったらいささか都合良すぎる展開だと思えるのだが、実話なんだからしょうがないのだろう。主人公の旦那さんはちょっと可哀想。音楽はHIP HOPばっかりでかっこいい。

この成功はアメリカ中に広められようとしていて、フリーダム・ライターズ基金なんてものも設立されているそうだ。本当にこれが一人のカリスマ教師の成功潭になるか、汎用的なソリューションの発見だったのか・・・はこれから明らかになるのだろう。まあ「カリスマ教師になる方法」すらマニュアル化出来るのなら苦労はないんだろうけど。
酔いどれ詩人になるまえに。チャールズ・ブコウスキーの映画。マット・ディロン主演。 

こういう映画の常として、上映中は何度も睡魔に襲われたりするのだけど、この映画も例にもれず何度も寝そうになった。酒とタバコとセックス。動かないカメラ、弾まない会話、転がり出さない物語。この映画は「停滞し続けること」に随分と熱心だ。ただし、その停滞を他ならぬ本人が記録し続けているせいで、少し救われるような気がする。

主人公のチナスキーは「書き続けること」を、「停滞し続けること」の言い訳に使っているだけなのかもしれないが、それでも言い訳があるだけマシじゃないかと開き直っているように見える。

毛ジラミのシーンはとっても愛らしい。マット・ディロンが好きだった女性必見。アイドルの成れの果てというか、これが正しいかどうかはともかく、情けないオッサンの生き方というものである。

映画「トランスフォーマー」を見ました。すごい変形。ぐいんぐいん動く。メカの映像は秀逸というか驚異というか、まあ宣伝文句を鵜呑みにしてもいいと思います。ジュラシック・パークと比肩しうる、ひとつの映像のメルクマールでしょう。

日曜日。恵比寿でデイヴィッド・リンチのインランド・エンパイア

くらやみの中の3時間。

これ以上はないというくらい、リンチのやりたい放題な感じで延々と続く、異様な世界。「ワケが分からない」ことを追い求め、「謎」を解き明かしたいと集まってくるリンチ信者たち。

映画というものが何を表すものなのか、今まで多くの映画を見てきたが結局のところよくわからない。たあ、一つのあり方として「デイヴィッド・リンチの映画」という基準があるような気がする。それはすなわち、映画とは難解さと謎解きのイタチごっこであり、さまざまな仕掛けをちりばめられていて、その隠された意味が見えるような瞬間こそが最も美しいとする立場だ。(おそらくそれは文化的に成熟というか爛熟したような場所で育った人にしか楽しめない映画だろうが)

そしてそのくらやみの3時間が終わったとき、とってもすっきりとこの映画を見終わった僕がいた。なんか異様に「わかった」という気がしたのである。まあ解釈は人それぞれだとは思うけど。

以下は俺の解釈。

土曜日。ル・シネマでリトル・チルドレン。この映画館は上品なおじさんおばさんお嬢さんが多くて、いつもなんとなくはぐれもの気分なのだが、この映画を見たあの上品な人たちは何を思うのだろう?

まあそれはともかく、今のところ僕が今年見た映画の中ではベストかもしれない。

2時間17分の間、まったくダレることなく緊張感が続く。この映画で語られる物語の結末が気になるのはでなく、そこで起こっていることをただただ凝視してしまう。登場人物の誰かに感情移入して感動したりするのではなく、有閑の専業主婦/前科ありの変態/司法試験浪人主夫/元警官・・・といった登場人物の誰もが少しずつ「私」であるように思ってしまう。ケイト・ウィンスレットはまったくもって素晴らしいくらいに生々しい主婦を演じていて、その振る舞い一つ一つに集中してしまう。実にいやらしい。

結局のところ、この映画が何を描いているのかは不明だ。ただ、なんとなくムズムズするような感覚だけが残る。「子供のままでいる大人」という解釈もよくわからない。実は人はみな、自分が何をやりたいのかサッパリわかっていない・・というようなぶっちゃけ話なのかもしれない。

メモ。感想は一言で。

<誰も知らない>
YOU最強。
誰も知らない

<東京タワー>
期待していたものがちがった。
東京タワー プレミアム・エディション

<嫌われ松子の一生>
極彩色絵巻物ミュージックビデオ。
嫌われ松子の一生 通常版

<笑う大天使>
さいあく。
笑う大天使(ミカエル)プレミアム・エディション

<茄子 アンダルシアの夏>
良作。
茄子 アンダルシアの夏

<ほしのこえ>
ロボットと少女が好きな人はアニメの監督になるの法則。
ほしのこえ(サービスプライス版)

僕のニューヨークライフ
クリスティーナ・リッチはどこまでエッチになるのかの実験。
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