cinema: 2006年9月アーカイブ
日曜日に見た映画。キム・ギドクの「弓」。
相変わらず猛烈に素晴らしいキム・ギドクの世界。どの映画も美しいし、ぶっこわれているし、この映画においても、世界が正確に/あるいは極めて恣意的に歪んだ形で描写される。それは人間が見る理想(もしくは悪夢そのもの)であり、引きつけられずにはいられない。
少女は「サマリア」にも出ていたハン・ヨルム。気絶しそうなほどにかわいらしく、「老人」はその存在に自分の人生を捧げている。海の上に浮かぶ釣り舟は隔絶と、限定的な世界との接触を得る場として、とても機能的な装置になっている。(少女にとっての世界は、彼女を欲望の対象とするエロ親父たちと、庇護者としての老人(=監禁者)にわかりやすく2元化される)。エロ親父でなく、彼女を「普通」の世界に戻そうとする青年との出会いは少女を未知なる外界へと誘うが、同時にそれは限定的で隔絶された世界がいかに心地よく完成された世界であるかをあらわにしてしまう。
監禁。身体の自由を奪うこと。それは魂の自由を無限に保証することと対になっていて、そこからの解放は逆に魂が永遠に老人の支配下におかれることを意味する。すべては補完的な関係にある。庇護の為の暴力としての「弓」は、同時に癒しの楽器としての「弓」でもあり、支配/監禁の正当化である「結婚」という儀式は、逆に解放へのトリガーになってしまう。
笑ってしまうほどに衝撃的なラストシーンは、明確な挑発行為であり、同時に美しい一編の詩である。どうしてあなたは愛する人を監禁しないのか?どうしてあたなは幽霊にならないのか?何かを拒絶すること、何かを受け入れること、どうやってその区別をしているのか?そういったことを全く理解できないまま、人間はただ海の上を漂うしかないのである。
土曜日に見た映画。ユナイテッド93。
この映画のことを知った時に、911をもう映画にしてしまうなんて・・・という禁忌の感覚が浮かんだ。それの裏返しにあるものが、「適切な時間がたてば映画にしてもよい」という、我々の実に都合のよい忘却への依存体質であるのなら、この映画化を「早すぎる」と批判するのは浅はかだろう。
むしろ遺族が最後の電話の内容を覚えているうちに、当時の管制官が自らの役を演じることが可能なうちに、(この映画の価値はそういったリアリズムにおかれているようなので)撮影され、公開されるべきものだったのだろう。少なくともこの映画を作った人たちとっては。
出演者は無名の俳優ばかりで、当日とほぼ同じ時間経過で映画の時間も流れ、脚色はきわめて少ないように感じられる。(ただし機内の様子の多くは想像でしかない)ただ、僕はそういった「リアリティ」で得られるものにあまり意味を感じなかったので、そういったことに字数を使うことはしない。それよりも興味深いのは、これを僕らが「評価する」ことの作法についてである。お金(前売り1300円)を支払った対価として、僕はこの映画が何を与えてくれたかを評価すべきなのだろうか?よくわからない。
この映画について「感動した」などと言うのなら、猛烈な違和感を感じるだろう。でもそれを禁止するというのなら、多くの「感動」は実に多くの禁忌の意識そのものと、それの都合のいい麻痺あるいは改変でしかないのである。映画に限らず、我々は常に「他者の運命」を消費する常習癖から足を洗えずにいる。
特におすすめもしなければ、止めもしません。見たければ、見ればいい。という映画です。

