cinema: 2007年8月アーカイブ

日曜日に見た映画。フリーダム・ライターズ。もう明日で上映は終わってしまうみたいだけど。

僕は自分が教師の息子なせいか、いわゆる「教育」には大いなる嫌悪と愛の入り交じった込み入った感情を持っている。自分が最も関わりたくないのが「教育」だと昔は思っていたし、でもなぜかドラマの「金八先生」は、一種のファンタジーとして大好きだったりしたのだが、この映画は実話をもとにしたものだから始末が悪い。「金八」メソッドなんてテレビ用のファンタジーであり無効だとばっかり思っていたのに、この「フリーダム・ライターズ」メソッドは、桜中学よりも何十倍も荒廃した(なにしろみんなギャング予備軍だったり銃を持っていたり足に発信器つけてたりするんだもの)ウィルソン校で、本当に生徒たちを立派に育ててしまったというのだ。そんな「教育」が現代に成立するなんて。

この熱血先生のクラスに使われた方法論の一つである「日記」というのは、学校の現場では割とありきたりなツールだと思うんだけど、おそらくはそれが他の多くのクラスと違ったのは、このクラスの生徒たちは、身近な暴力、死、差別、人種対立、家庭崩壊・・・その他諸々のありとあらゆる「毒」を接種しすぎていたからだろうと思う。

つまり日記はありきたりなツールではなく、授業で使われる「アンネの日記」と同じく、「自分」の存在証明であり、解毒作用のあるツールとして機能したのだ。そしてブログもそうだが、「他者に読んでもらいたい」と思って書かれる日記には、ある種の自分プレゼン機能のようなものがあって、自分を外に向かって開くように作用する。つらすぎる現実は、書くことで冷静に対象化され、自分が本当に求めているもの(=ギャングになって死にたいわけじゃない)に気付かせる。

映画としては、これが「実話」じゃなかったらいささか都合良すぎる展開だと思えるのだが、実話なんだからしょうがないのだろう。主人公の旦那さんはちょっと可哀想。音楽はHIP HOPばっかりでかっこいい。

この成功はアメリカ中に広められようとしていて、フリーダム・ライターズ基金なんてものも設立されているそうだ。本当にこれが一人のカリスマ教師の成功潭になるか、汎用的なソリューションの発見だったのか・・・はこれから明らかになるのだろう。まあ「カリスマ教師になる方法」すらマニュアル化出来るのなら苦労はないんだろうけど。
酔いどれ詩人になるまえに。チャールズ・ブコウスキーの映画。マット・ディロン主演。 

こういう映画の常として、上映中は何度も睡魔に襲われたりするのだけど、この映画も例にもれず何度も寝そうになった。酒とタバコとセックス。動かないカメラ、弾まない会話、転がり出さない物語。この映画は「停滞し続けること」に随分と熱心だ。ただし、その停滞を他ならぬ本人が記録し続けているせいで、少し救われるような気がする。

主人公のチナスキーは「書き続けること」を、「停滞し続けること」の言い訳に使っているだけなのかもしれないが、それでも言い訳があるだけマシじゃないかと開き直っているように見える。

毛ジラミのシーンはとっても愛らしい。マット・ディロンが好きだった女性必見。アイドルの成れの果てというか、これが正しいかどうかはともかく、情けないオッサンの生き方というものである。

映画「トランスフォーマー」を見ました。すごい変形。ぐいんぐいん動く。メカの映像は秀逸というか驚異というか、まあ宣伝文句を鵜呑みにしてもいいと思います。ジュラシック・パークと比肩しうる、ひとつの映像のメルクマールでしょう。

日曜日。恵比寿でデイヴィッド・リンチのインランド・エンパイア

くらやみの中の3時間。

これ以上はないというくらい、リンチのやりたい放題な感じで延々と続く、異様な世界。「ワケが分からない」ことを追い求め、「謎」を解き明かしたいと集まってくるリンチ信者たち。

映画というものが何を表すものなのか、今まで多くの映画を見てきたが結局のところよくわからない。たあ、一つのあり方として「デイヴィッド・リンチの映画」という基準があるような気がする。それはすなわち、映画とは難解さと謎解きのイタチごっこであり、さまざまな仕掛けをちりばめられていて、その隠された意味が見えるような瞬間こそが最も美しいとする立場だ。(おそらくそれは文化的に成熟というか爛熟したような場所で育った人にしか楽しめない映画だろうが)

そしてそのくらやみの3時間が終わったとき、とってもすっきりとこの映画を見終わった僕がいた。なんか異様に「わかった」という気がしたのである。まあ解釈は人それぞれだとは思うけど。

以下は俺の解釈。

土曜日。ル・シネマでリトル・チルドレン。この映画館は上品なおじさんおばさんお嬢さんが多くて、いつもなんとなくはぐれもの気分なのだが、この映画を見たあの上品な人たちは何を思うのだろう?

まあそれはともかく、今のところ僕が今年見た映画の中ではベストかもしれない。

2時間17分の間、まったくダレることなく緊張感が続く。この映画で語られる物語の結末が気になるのはでなく、そこで起こっていることをただただ凝視してしまう。登場人物の誰かに感情移入して感動したりするのではなく、有閑の専業主婦/前科ありの変態/司法試験浪人主夫/元警官・・・といった登場人物の誰もが少しずつ「私」であるように思ってしまう。ケイト・ウィンスレットはまったくもって素晴らしいくらいに生々しい主婦を演じていて、その振る舞い一つ一つに集中してしまう。実にいやらしい。

結局のところ、この映画が何を描いているのかは不明だ。ただ、なんとなくムズムズするような感覚だけが残る。「子供のままでいる大人」という解釈もよくわからない。実は人はみな、自分が何をやりたいのかサッパリわかっていない・・というようなぶっちゃけ話なのかもしれない。